南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記30【2期】勉強クラブ①

  2013年に首都から地方の街に引っ越しをして、これからどのように集まりを始めていくか、その糸口を祈りながら探していました。外国人がいきなり現地のコミュニティに入っていくことは難しく、コミュニティと信頼関係を築くための足掛かりが必要でした。その時に目に入ったのは、多くの子どもたちが私たちの自宅の前で遊んだり、自宅の前を行き交う姿でした。子どもが多い国といわれるA国、まさにそのものでした。

1.日本人としてできること

 前にも何度か書きましたが、A国に赴く前のデプテーション(教会訪問)の時にある宣教師から言われた言葉がずっと心に残っていました。「多くの宣教師が世界各国からA国に遣わされる中、神様があえて日本人を選ばれ、日本の教会からA国に遣わされるのには必ず理由があります。ですから日本人として何ができるかをぜひ考えてみてください。」

 客観的に見て、他国人宣教師に比べて日本人宣教師は世界の中で本当にわずかです。しかし、その中で神様が日本の教会を導かれ、日本の教会からA国に私たちが遣わされたのには、何かのご計画があるのだろう。機会があるごとに、そのようなことを考えさせられていました。

 全ての宣教師は福音宣教のために仕えますが、とりわけ日本人としてこの宣教地でできることは何だろうか。そのようなことも考えながらのデプテーションでしたが、訪問したある教会で、近隣の子どもたちのために教会を開放して勉強教室を開催していたのが目に留まりました。また日本のいくつかの教会では同様に近隣の子供たちのための教育支援活動を行いながら証し・伝道をしている様子を見て、ひょっとしたら、これはA国でもできるかもしれないという思いが心の中に残っていました。

 そのような中で2013年に首都から地方の街に移り、住み始めた家の大家さんはクリスチャンでした。年齢は当時80代後半でした。かつての大虐殺の時代、神様を信頼して神様の守りの中でクリスチャンとして虐殺の時代を生き抜いた証し人でした。

 ある時、私とその大家さん家族と話していた時に、しみじみと言われたことを覚えています。「この国はね、本当に悪が多いのです。この国の希望はね、子どもですよ。子どもが希望です。

 考えさせられる言葉でした。この遣わされた地で、まず子どもや若者を対象としたミニストリーが求められているのではないか。そしてそれは私たちができることのひとつではないだろうか。様々なことを見聞きする中で、ぼんやりとした思いは次第にはっきりした思いへと変わっていきました。

 かつて江戸時代に日本には「寺子屋」というものがあったと聞いています。お寺が庶民の教育を担っていたといいます。当時の日本はお寺を中心としたコミュニティだったのでしょう。そして、それは今のA国にも当てはまります。大虐殺の時代以降、教育に多くの問題を抱えていたA国では、多くの寺が貧しい子どもたちのために教育の場を提供しています。B市で私たちの教会があった地区の公立小学校はお寺の敷地内にありましたが、それはA国では普通に見られる光景です。そのような中で、教会は何ができるのだろうか。

 平日は勉強教室の形で勉強を教え、日曜は日曜学校で聖書のことばを教える。昔の日本にあった「寺子屋」ならぬ「教会子屋」のような存在は地域への証しのために、また福音伝道のためにも可能なのではないかと頭を働かせました。考えると、キリスト教会の日曜学校(教会学校)も、元々は英国で子どもたちに文字の読み書きを教える勉強教室のようなところから始まったとのこと。次第にイメージが膨らんでいきました。

2.勉強クラブの開始

 しく始める勉強教室で教える科目は小学校の算数としました。この国には英語教室はたくさんありますが、算数教室はほぼ皆無だったこと。また繰り返し計算のプリントをそれぞれ子どもたちのレベルに応じて配り、子どもたちが自分の力で学習する方法がより良いのではと思ったことなどが理由でした。

 開始に向けて計算プリントを多数用意しました。そして、準備が終わった段階で案内を作り、ご近所に挨拶がてら配りました。近所の子どもたち向けの勉強教室の名前は「勉強クラブ」とし、当初は自宅の一角を開放して、行うこととしました。

 スタートの日、近所の子どもたちは見知らぬ外国人の家に本当にやってくるのだろうかと不安でしたが、時間になると、ひとり、またひとりと近所から小学生たちがやってきました。初めてとなる勉強クラブの開始でした。最初は9人の子どもたちが集まり、みな緊張している様子でしたが、段々と打ち解けてきました。次の日は15人が集まり、にぎやかになっていきました。

 それからというもの、多い時は40人ほどが一度に来ることもあり、対応が難しくなるほどでした。その都度、よき助け手が与えられたことを感謝しています。また、日本の教会から来てくださった方々も勉強クラブで子どもたちの勉強を見てくださり、大変助けられました。この勉強クラブは、B市におけるミニストリーが終わる時まで続きましたが、記録を見るとトータルで200名以上の子どもたちが近隣から参加したことになります。この勉強クラブを通して、近隣の方々と良い出会いのきっかけとなったことは感謝でした。

 

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宣記29【2期】泥棒騒ぎ

 地方の街に引っ越してからというもの、今まであまり経験しなかったことに何度も遭遇しました。そのひとつは窃盗被害でした。外国人が比較的多い首都に比べて、少ない地方では、どうしても外国人の住んでいる家は目立ちます。泥棒にとって格好の的のようなものです。これに私たち家族は何度も悩まされました。

 A国で働く知人宣教師もかつてこのように言っていたことを思い出します。「教会はね、誰でも歓迎したい。だから私は教会の扉をいつもオープンに開けていたんだよ。誰でもいつでも入ってこれるようにね。そうしたら、泥棒がやってきてね。それからは、防犯と安全のために扉を閉めることになった。」

 働きのためには、なるべくオープンにしたい。近隣の多くの人たちに私たちの存在を知ってほしい。当初は自宅の一角を開放しての働きでしたから、そのように考えていました。しかし、見知らぬ人たちに知られれば知られるほど、家族は危険に会う可能性も高まります。理想と現実のはざまで考えさせられることも多くありました。

1.泥棒が盗んでいったもの

 A国では、ほとんどの家の窓には鉄格子がはめられていて、玄関の扉には南京錠を何個も使います。窃盗被害が多いからです。その中で、多くの泥棒は窓の外から物色します。深夜などに窓をこじ開け、長い棒などを使って鉄格子の隙間から部屋の中の物を盗むのです。

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 地方に引越した後、最初に泥棒被害にあった時は、私たちも初めてのことで無防備でした。窓の近くに電子機器などを置いたまま寝てしまい、朝起きると窓がこじ開けられて電子機器が消えていたということがあり、それからは窓の近くには決して大事な物を置かないようにしました。

 防犯対策のために、あらゆることをしました。A国では珍しかったセンサー付きの防犯ライトを外壁に取り付けたりもしました。これで一安心と思いきや、2回目に来た泥棒はその防犯ライトをそのまま盗って行きました。泥棒の方が一枚上手でした。

 働きの中で、何か特別なプログラムを準備している時などに限ってよく泥棒がやってきました。特別な集会を前に、祈りつつ気持ちを高めたい時に限って、泥棒により気持ちが折られました。そのような出来事が連続すると、自宅の前を通る人たちを皆、無意識のうちに警戒する目で見てしまっている自分がいて愕然としました。

 朝になると、昨晩には無かった泥で汚れた足跡が玄関前に残っていることが何度もありました。深夜に門を乗り越えた侵入者がいたのだと思うと、朝からどっと疲労感がやってきました。毎晩、心のどこかで今晩も泥棒が来るかもしれないと思う日々でした。妻や子供たちは少しの物音にも敏感になっていました。時々用事などで、他の地域に宿泊する時、ああ今晩は泥棒の心配をしなくて良いんだと家族でほっとしたことを覚えています。

 大家さんにも相談しましたが「気を付けてね」の一言だけでした。これは大家さんが悪いのではなく、A国では基本自分の身は自分で守らなくてはならないのです。もちろん大家さんも、侵入防止のための鉄網を増やすなどの対策をしてはくれましたが、侵入を試みるものに対しては限度があります。命が奪われるなど、よほどのことがなければ警察には届けようとはしない。もし警察に届けたら、もっと面倒なことになるからということでした。警察を信用していないこの国の現実を思いました。

 同じ街で外国人の家に泥棒が侵入したという話も何度も耳にしました。その外国人の場合は、家の中まで侵入されたとのことですが、あえて寝たふりをして起きなかったそうです。もし起きたら泥棒に撃たれるからと。同じような話はよく聞きます。泥棒が来ても、決して抵抗してはいけない。泥棒にはそのまま帰ってもらった方が良い。命の方が大事だからと。水面下ではいまだに多くの銃が出回っている事実があります。

2.神様の守り

 毎晩、寝る前に家族で祈りました。「神様、今晩は泥棒が来ませんように。家族を守ってください。」日本ではなかなか普段しない祈りですが、私たちにとっては真剣な祈りでした。

 ある乾季の夜でした。乾季は滅多に雨は降りません。しかし、その日の深夜3時ごろだったでしょうか、急な雨音に目が覚めました。夢うつつ、なぜ乾季にこんな強いスコールが降るのだろうかと思いながらも、また眠りに入りました。そして翌朝起きると、部屋の窓が外からこじ開けられているのを発見しました。「やられた」と一瞬思いました。しかし、その日に限って何も盗まれているものはないのです。不思議でした。

 昨晩の季節外れの大雨を思い出しました。おそらく泥棒は、窓をこじ開けて物色しようとした時に、突然予想外の大雨が降ってきたので驚いて断念したのではないかと。これは私の勝手な想像にすぎません。でも確かに神様の守りがその晩にはありました。私はその事実を見て神様に感謝するしかありませんでした。宣教地では、危険と隣り合わせということが何度もありました。しかし、その中で神様の守りと助けも豊かに実感することができたのです。

 

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宣記28【2期】洪水の中で

   A国の地方の街B市に引っ越した2013年のことでした。A国では例年雨期の終わりの時期に大雨が降りますが、この2013年は特に長い期間に渡って大雨が降り続き、B市内を流れる川が氾濫したのです。一晩にして、私たちの住んでいる地域を中心に洪水となりました。

1.突然の洪水

 る日のこと、朝になってみると、家の周りの道は夜のうちに腰ほどの高さまで水が溜まっていました。洪水のために家から出られない日が何日も続きました。A国の地形は日本のような高低差があまりないので、すぐに水は引いていきません。しかも、雨がなお降り続いている状況でした。床上浸水まであと少しのところまで水位が上がってきていました。もし洪水の水位がこのまま上がっていけば、家の中にまで水が入ってくることも避けられず不安に駆られました。

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 外出ができない中で数日が経ち、徐々に食料も尽きてきます。意を決して、市場に買い物に行くこととしました。家族の「気をつけて」という声を背に自転車で家を出て、腰上までの泥水につかりながら、必死の思いで食材を買いに行きます。市場に着くと、洪水の中でしたが、そこにはいつもと変わらない活気があり、ほっとしました。必要最低限の食材を買い、泥水に汚れないようにビニールにくるんで自転車にくくりつけました。そして洪水の中を自転車を押して、半ば泳ぐように帰宅したことを覚えています。

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 日本の教会の方々にもメールやSNSなどで状況をお伝えして祈って頂きました。「祈り会で祈りました」というお返事などに、日本から遠い国にいながらどれほど励まされたでしょうか。結果的に、それ以上の水位上昇から守られたことは感謝でした。数日経って、水が引き始めた時は、神様のあわれみを思いました。祈りの力を体験しました。

 この後、B市から首都に引っ越しをするまでの6年間に渡って、自宅の壁一面にはこの時の洪水の水位の跡が線となって残りました。それを見るたびに、その高さにまで洪水が来たことの驚きと、神様がぎりぎりのところで守ってくださったことの感謝を改めて覚えさせられました。

2.魚が釣れたよ

 水で家から出られず悶々としているときに、「おお、釣れたよ~。」隣の家から楽しそうな声が聞こえてきました。家の前の道路は洪水で、まるで川のようになっていたのですが、ご近所ではその水の中に釣り針を垂らして、近くの池や沼から洪水と共に流れてきた魚を捕まえる釣りを楽しんでいる様子。また、近所の子供たちは手作りのボートに乗って、洪水の中で無邪気に遊んでいました。

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 私は洪水という予想外の出来事の中で驚き慌て、元来性格的にハプニングに強くないこともあり、先行きが見えずに正直不安でいっぱいだったのですが、トラブルやどんな状況でもポジティブに楽しんでいるご近所の方々の様子を見て、羨ましくも感じました。

 A国の人たちは、良い意味で楽観的な人たちが多いように思います。何かの時に現地の牧師に相談することもありますが、その時の現地の牧師の第一声は決まって「大丈夫ですよ!心配ないです。」まるで口癖のように思うほどですが、信仰に裏打ちされたその言葉には、相談を持ちかけたこちらの重い気持ちがいつの間にか軽くされているように感じます。

 何かトラブルが起こっても臨機応変に対応する。それはA国の人々が、型に縛られない発想ができることもあるのかもしれません。日本人は一般的に型というものを追求しがちのように思います。そして、もし起きている現実に、自分の持っている型や経験が当てはまらないと、思考停止してしまったり、当惑してしまうことが多いように思います。しかし、こちらの国の人たちは、その点たくましいといえます。

 以前地方の街から首都に戻る時にバスに乗っていました。走行中、突然バスのエンジンの一部のベルトが切れてしまったのです。バスは道端に止まり、そのまま動かなくなりました。日本だったら、急いで修理業者を手配し、業者の人がやってきて修理をします。代車も手配するかもしれません。しかし、もしこの国で遠い首都から業者を呼んでいたら日が暮れてしまいます。どうするのだろう?と見ていました。

 運転手は、最初いろいろな手を尽くしていましたが、万策尽きた時、おもむろに車内の窓のカーテンをはぎ取り、切ってひも状にしました。そしてそれをベルトの代用品としたのです。それを機械にとりつけて、修理は完了。そのままバスは元のように動きだし、無事に目的地までたどり着きました。到着時間は遅くなりましたが、皆笑顔で誰一人文句を言う人はいません。

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 トラブルがあっても臨機応変に対応できる、発想の柔軟性とでもいうのでしょうか。今の日本にはこのような発想はあまり見られないかもしれないとその様子を見ていて思いました。

 今でも何か予想外のトラブルがやって来た時に、あの時の洪水のこと、神様はトラブルの中でも守ってくださったことを思い出します。そして「釣れたよ~」と、ポジティブに楽しんでいたご近所さんたちのことも懐かしく脳裏に浮かぶのです。

3.最初の試練

 の洪水は、私たち家族にとってはB市に住み始めて最初の試練のようなものでした。後に大家さんによると「30年に1回ぐらいの洪水だったね」と。30年に1回の洪水を、その場所に住み始めた最初の年に経験したのですから、滅多にないタイミングで遭遇したのかもしれません。

 しかし、最初の段階で試練に出会うと、それから後に出会う様々な問題も、小さな視点でなく、大きな視点で見れるようになるのではないかと思うのです。「あの時の洪水は確かに大変だったが、その中でも神様は助けてくださり、家族共に乗り越えることができた」という体験は、私たち家族をまたひとつ成長させてくれたように今から振り返って思います。

 海外での働きは、語学でも生活や様々な面でも最初が肝心だといいます。最初の時点では様々な苦労やトラブルもあり大変な思いをしますが、最初に楽な方向へ行くことを考えてしまうと、後から苦労するのは大変だと。逆に最初の段階で苦労すると、その時はつらいが、後はスムーズに動きやすいと耳にしたことがあります。

 宣教地で暮らしてきた中で、いつも新しい働きやステージに入る時に、それも最初の段階で何かの試練を経験することが多かったように思います。最初の段階での試練は、辛い気持ちにもさせられますが、その中にも神の配慮と助けがあることを何度も経験しました。神様はいつも最善をなされることを信じ、神様に感謝します。

 幼い子供たちにとっても、洪水は大変な経験だったかもしれませんが、家の周りを取り囲んだ深い泥水の上に折り紙で作った船を浮かばせたりもしていました。子供は子供なりに、ハプニングの中でたくましく育っているのかもしれません。

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宣記27【2期】地方の街への引っ越し

今回から2期の記録に入ります。宣教師によっては、1期4年間と年月で区切るケースも多いですが、このブログでは働きの場所によって区切っています。主に首都で奉仕をした2007年から2012年までの6年間を1期、そして地方に働きが移った2013年から2018年までを2期、その後また首都に移った2019年から帰国した2022年までを3期としています。

 2007年から行われてきたA国首都での務めを終え、2013年の5月にかねてからビジョンを持っていた地方の街B市へ距離にして約300キロの引っ越しをしました。この街での家探しに関しては、こちらもどうぞ。

1.トラックでの引っ越し

 

 の国では日本のような引っ越し業者をほとんど見かけません。普段お米などを運んでいるトラックを1台貸切って、自分たちで荷物をトラックに積み込んで、指定する場所まで持って行ってもらう方法が、荷物が多い場合の引っ越しの一般的なやり方です。引っ越し当日は、まだ涼しい早朝の5時に作業がスタートしました。荷物の積み込みに関しては、今まで奉仕をしていた教会の方々が手伝いに来てくださり、大変助かりました。

 荷物を全部載せ終わり、運搬はトラックの運転手にお任せし、私たち家族は自分たちの車で引っ越し先へ向かおうとしていました。その時に教会の牧師が言います。「トラックの助手席には誰も乗らなくて大丈夫ですか?」どうやら、道中で私たちの荷物が盗まれることを心配していたようです。日本では、引っ越し業者を信頼できないからと言って、一緒に引っ越し先までトラックに同乗していくということは滅多にありませんが、この国では何が起こるか分からない。結局、自分の身は自分で守らないといけないということが根底にあります。

2.他人を信用しないで

 いですか。これから引っ越しをされる先でも、絶対に他人を信用しないでください。これだけは言っておきたいのです。」今までお世話になった家の大家さんに、最後の別れの時に強く言われた言葉が印象的でした。いつも柔和でニコニコしておられる大家さんが最後に言われた重みのある一言。大家さんなりの親切と心配からの言葉だったのでしょう。その頃、A国のある地方の街で、宣教師が金銭目的の強盗に襲われる事件があったことも踏まえてかもしれません。

 以前、この国で子供向けの絵本を見たことがあります。その絵本は最後のページにその絵本全体の教訓でありまとめが書かれているのですが、私が見た絵本には一言「他人を信用してはいけません。」

 これには驚きました。もちろん日本にもいろんな出来事はありますが、子供向けの絵本にそんな強烈なメッセージを書いている日本の絵本は見たことがありません。

 A国ではかつての大虐殺の時代に、多くの人たちは裏切りにもあい、そして命を落としていったと聞きます。それからも内戦が続き、厳しい時代は続きました。その中で、これは決してA国に限ったことではないと思いますが、基本的に他人を信用していないのではないかと感じることが多くありました。信用しているのは家族そして親族のみ。そしてその結束はとても強固に感じました。

 私が関わってきたA国の教会は、多くの場合、教会内でも親族間で固まる傾向があるように見えます。教会でも、何かのことをみなで協力し合って行うことがなかなか難しいとある宣教師に聞いたことがあります。そのような意味では、ハウスチャーチ(家の教会)がA国では多いと耳にするのには理由があるように思います。

 そのような中で、私のような外国人だからこそできることがあるということも気づきました。外国人だからこそ、しがらみに関係なく、いろんな環境やコミュニティの中に飛び込んでいける。もちろん言葉の壁がある故に、完全にコミュニティの中に入り込むのは難しいかもしれない。でも、福音を携えてまず関わりを持っていくためには、外国人やよそ者だからできることもあるのです。

 神様があえて外国人を選び、そして宣教の場に遣わされるのには意味があるように思います。そしてそれは日本も同じです。日本人同士だと難しいことが、外国人宣教師だとできることもあります。また、以前あるアメリカ人宣教師が日本の風習について語られた時に、今まで気づかなかったその意外な視点に驚いたことがあります。海外からの視点でなければ見えないことも多くあります。日本には今後も外国人宣教師の視点が必要です。そして、海外でも同様に日本人宣教師の視点は用いられるのだと思います。

3.新しい住まいにて


 前にも書きましたが、B市での新しい住まい探しは難航しましたが、最終的に住むべき家が与えられたことは感謝でした。家族みながその家を見た時に、探していたのはこの家だと平安をもって言えるような、まさに神様が用意してくださっていた住まいでした。

 何かを祈り求める時に、聖書には「探しなさい。そうすれば見出します。」とあります。それはただ闇雲に探しまわるというよりも、信仰によって神様が既に備えてくださっているものを見つけ出すという言いかたの方が自分にはしっくりときます。宣教地ではそのような体験をしたことが何度もありました。

 街中をくまなく回った家探しでしたが、そのことによってこれから働きを始めるB市の街全体の様子を知ることができたのは、結果的に幸いなことでした。長い時間をかけた労苦も、後から振り返ると何かの意味があったことが分かるのです。

 新しい家の大家さんは、年配のクリスチャンの方でした。かつての大虐殺の時代、兵士から見つからないように聖書を隠し、そして生き抜いた生き証人でした。私が初めて出会った時には80代後半でしたが、とてもお元気な方で、いつも会話の中で「神様」が口から出てくる方でした。

 このB市の家には6年ほど住むことになりました。6年後、再度首都に働きの場が移ることになり、引っ越すことになりましたが、その時に大家さんは私たち家族のために改めて祈ってくださいました。大虐殺の時代をただ信仰によって生き抜いてこられた大家さんの祈りは、一つ一つの言葉に重みがある、本当に重い祈りでした。その祈りは、新たな出発をする私たち家族を慰め、また励ましてくれました。

 ヤコブ書には「長老を招き…祈ってもらいなさい。」という箇所があります。今の恵みの時代、私たちはキリストの御名によって父なる神に直接祈ることができます。第三者の人間を介する必要はありません。直接神に祈れるのは、イエスの十字架の故に私たちに与えられた素晴らしい特権です。その特権に日々あずかりながらも、時に長年信仰を積み重ねてこられた方々に祈って頂く時に、その祈りと信仰に励まされ、また力づけられる思いがすることも事実です。1人で祈ることも大切です。しかし「互いに祈りあう」ことも神様は求めておられます。祈りを通して、互いに励ましあうことを神は望んでおられるのだと思います。

 

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宣記26【1期】牧師不在の教会での奉仕

 1年間の帰国日程を終え、2012年にA国に戻りました。当初はA国に戻った後、地方の街へ新しく集まりを始まるためにすぐに引っ越す思いがありましたが、かつて出席していた首都近郊にある教会の開拓宣教師(牧師)が1年近く母国に戻られるとのことで、不在の間教会をあずかってほしいとの要請があり、祈りのうちにその働きを引き受けることとしました。地方に行く前にもう1年間首都に留まって奉仕をすることになりました。

1.一度は去った母国に戻った宣教師

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 その教会はC教会といいますが、教会を始めたのはA国人の宣教師でした。かつて大虐殺があった時代に、命からがら歩いて国境を越え、隣国に脱出したのです。そして難民としてアメリカに渡り、その後、アメリカの教会で福音を聞いて信仰を持たれました。そして今度は宣教師としてアメリカの教会から派遣され、ご自分の母国であるA国に戻り、首都近郊にてC教会を開拓し牧師として働いておられました。

 「本当は私はこの国に帰ってくるつもりはなかったんだよ…。」ある日ぽつりと言われていた言葉がとても心に残っています。かつての大殺戮の時代を経験したトラウマがあるのかもしれません。それでも家族を連れてA国に戻ってきたのは、ただ神の召しと導きがあってのこと。

 以前その宣教師は説教の中でこう語っておられました。「私は両親も兄弟も大虐殺の時に、兵士によって殺されました。アメリカに渡った後によく聞かれました。『もし今、あなたの両親を殺した奴が目の前にいたらどうするか?』『復讐したくないか?』と。でも、今ならこう答えます。ローマ書に書いている通りに『復讐は神がなさることです。神の怒りに任せます』と。」

 私はその宣教師が抱えておられる思いの深さの全てを思いはかることはできません。心の中の奥深くの悲しみや抱え続けている様々な感情の全てを思い知ることはできません。ただ、聖書にはその箇所の前後に、このように書かれています。

「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。・・・悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12章)」

 この聖書のことばは、かつて大虐殺の時代を経験したA国の人々にとって私たちの想像以上に重いことばなのだと思わされるのです。

 

2.毎週の説教奉仕

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 開拓宣教師がアメリカに戻られて、毎日曜3回の説教奉仕が始まりました。以前、F教会にて奉仕した時は毎週1回の説教で、しかも現地伝道者が責任者として教会におられましたから、私はただ説教奉仕に集中すればよかったのですが、今回の奉仕は、その時よりも責任がかなり増えました。

 毎週3回の説教の準備は、平日のかなりの時間を費やしました。この国の多くの教会で好まれて使われている聖書は、かなり前に翻訳されたもので、言葉使いが古く、特に若い人たちは聞いても理解しにくいという話を聞きます。(日本語の文語体をイメージして頂いたらよいかもしれません。)

 また神様に対して用いる言葉で、日本語は敬語を用いるように、A国語では「王様用語」を使います。「食べる」という言葉ひとつでも、日本語では「食べる」「頂く」「召しあがる」などいろんな表現がありますが、A国語も同様に、一般人、丁寧語、お坊さん、王様など対象によってたくさんの「食べる」表現があります。A国語聖書では神様に対して使う「王様用語」も、一般的にはあまり用いない難しい言葉で、特に教会学校などの子供たちには理解しにくいことがあります。難しい単語をいかに分かるようにかみ砕いて話すかが、外国人説教者の頭を悩ませるところです。

 聖書の学びの時に「試練」という言葉を用いて、この言葉が分かりますかと聞いたら、分かりませんと返ってきました。その場合、「試練」という言葉を使わずに、他の言葉を用いて説明しなくてはなりません。また、「新生」の話をしたときに「それは転生のことですか?」と返されたこともありました。仏教の輪廻転生の考えと混同しているようでした。この場合も、新生の教えを学びを通して、また説教を通して正しく伝えなくてはなりません。

 10年近くの働きの中で「信じる」という言葉にも、配慮が必要なことが段々と経験の中で分かってきました。A国語の「信じる」という言葉には、時々人によっては「認める」というニュアンスでとらえられていることもあるように感じています。つまり、目の前の方に福音をお伝えして「あなたはこのことを信じますか?」と言ったつもりが、ある方からすると「このことを認めますか?」というニュアンスで伝わることもあり得るということです。

 「認める」と「信じる」は日本語では意味が違いますが、A国語では大きな違いではないようです。片や「この人は神を信じた」と言い、片や「いや認めたが、信じてはいない」と。同じ言葉だったとしても理解に違いが生じてしまうのです。これは問題です。

 この問題を避けるために、私は「信じますか」だけでなく「信じ受け入れますか?」という言葉を伝道や説教の中で用いるようになりました。少しでも誤解を防ぐために、よりよく意味が通じるように、外国語を使う説教者にとっては言葉の失敗や誤解が起こることは避けられませんが、それらを繰り返さないためにも努力が欠かせません。

 

3.任せられた奉仕が終わって

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 約9か月に渡った牧師(宣教師)不在の教会をお預かりしての奉仕は終わろうとしていました。毎週3回の説教奉仕は、準備が大変でしたが、この準備の中でも多くのことを学び、また祝福を頂くことができました。

 最初、教会をお預かりした時に心がけ、またC教会の皆さんにもお伝えしたことは、当たり前のことですが「自分はこの教会の牧師ではない」ということでした。そして、自分自身のスタイルを教会の中で出さないよう努めました。私が責任もってその教会で奉仕をするのは一時に過ぎず、またいずれその教会の牧師が帰任される訳ですから、牧師のスタイルが自分のスタイルと異なる場合は、自分の確信とは異なっても、牧師のスタイルに合わせるようにしました。

 宣教師(牧師)がアメリカから戻ってこられ、私の奉仕最後の日、教会では集会の後に皆さんが様々な形で感謝を示してくださいました。本当に感謝であふれた慰められた時でした。ある男性からは、A国語の新しい聖書を頂きました。彼にとって新しい聖書を購入するというのは、経済的にも大きな犠牲でした。でも、真新しい聖書と共にその気持ちを嬉しく受け取りました。そのA国語聖書は、帰国した今でも用いています。

 以前、宣教師は現地の教会の方々によっても、育てられると書きました。聖書には「互いに」という言葉が何度も出てきます。宣教師と教会、また外国人と現地の方々は、決して上下のような関係ではなく、互いに仕えあう。そのことを私は現地の教会の奉仕で学びました。

 宣教第1期(2007年~2012年)は首都の教会での働きでしたが、現地で多くのことを学ばされ、また経験をすることができました。それは地方に行って新しい集まりを始める第2期に確かにつながるものとなりました。全ての出来事や経験は決してむだではなく、益へと変えてくださる神様に感謝します。

 ※宣教第1期の記事は今回で終わりです。次回からは地方へ移っての第2期に入ります。

 

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宣記25【1期】1年間の帰国

  2007年にA国に渡り、言葉の勉強、また教会での奉仕の中で、あっという間に月日が過ぎ去ろうとしていました。渡航から丸4年が経過した2011年を一区切りとして、日本に1年間帰国をし、祈りと支援をしてくださった教会を巡回して宣教活動の報告をすることとしました。

1.休息と逆カルチャーショック

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 ある方から、海外で働く宣教師のまとまった期間の帰国には、主に3つの目的があると教えられました。1つ目は母国での休息。2つ目は支援してくださっている教会を訪問しての宣教報告。3つ目は海外での働きの中で自分たちに不足していると思うことを、母国で補うことです。

 母国を離れて海外や異文化の国で生活をする時に、生活初期の段階で「カルチャーショック」を受けることがあります。母国ではこういうやり方なのに、なぜこの国やこの場所ではこうなのだと比較をして怒りや悲しみの感情が出てきたり、受け入れられない思いが出てきたりするのです。

 人によってかかる時間は違いますが、徐々にその環境に適応するにつれて、様々な違いを自分なりに受容できるようになってきます。そうすれば外国や異文化の中でも落ち着いて生活できるようになります。

 しかし今度は母国にまとまった期間戻る時に、大なり小なり「逆カルチャーショック」を体験することがあるのです。「なぜ母国はこうなのだ」と。今度は自分が滞在していた国の良かった面と、母国のそうでない面の違いが気になりはじめるのです。

 宣教師も特に第1期が終わっての帰国時には注意しないといけないとある文面で学びました。海外で数年過ごし、特に第1期は海外の文化や教会になんとかして必死に溶け込もうとしているだけに、かなりの精神的緊張状態の中にあるといえます。宣教師にとって最も困難とも言われているのが第1期です。その時期を過ごした反動ともいえるかもしれませんが、母国に帰ってくると、母国の様々な現状にショックを受けてしまうことがあるのです。今から当時のことを振り返るならば、このような「逆カルチャーショック」があるということも前もって知る必要があったと自分の体験からも反省しつつ、教えられています。

 日本のやり方、海外のやり方、それぞれに違いがあり、それぞれに良いところ、そしてそれぞれに課題があることを切り分けて、冷静に見られるようになれば、時間はかかることがあったとしても、これらのカルチャーショック症状を乗り越えることができることでしょう。

 そのような意味でも、異文化の中で知らず知らずのうちに疲弊している心と体を定期的に休ませることは大切なのだと思います。ある国の宣教団体は、数年働いた宣教師が母国に帰国した場合、最初の1か月は何も予定を入れずに休ませるようにしていると聞いたことがあります。心や体の疲労というものは限度を過ぎると感覚が麻痺し、感じなくなってしまいます。そのまま突っ走ると、突然折れてしまうこともあり得ます。そうなる前に宣教地で適切な休息をとることも必要ですが、言葉が通じる母国でしか味わうことのできない休息もあるのです。

 心と体の休息、また霊的な面での充電も必要かもしれません。そして健康チェックはまとまった期間の帰国の中で大切なことです。1年間の帰国は、日本での住まいをどうするか、また生活をどうするか、子供の教育をどうするかなどの課題もあるのですが、腰を据えて様々なことを考え直し、再度の海外への派遣に備える良い機会だと思います。

 

2.宣教報告

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 2011年は帰国して早々に大きな地震があり、様々な面で日本中が揺れた年でした。地震によって大きな被害を受けた場所、また人々のために祈らされました。そのような中でしたが、2011年の約1年間に渡り、私たちの働きを祈り、支援してくださった全国の教会を再度訪問し、宣教の報告をする機会が与えられました。

 「これからA国の働きのために祈ります」という声を頂くデプテーション、そして再訪問の時の「祈っていましたよ」という教会の方々の声にどれほど励まされたでしょうか。パウロがそうであったように、務めを委託されて宣教地に遣わされている者として、その派遣元に戻り、宣教地にて神様がなされたことを母国の教会の方々に報告をするというのは大事なことだと思わされています。今の時代は直接訪問して報告する以外にもメール、SNSやネットにて、現地にいてもリアルタイムで現状を母国の方々に報告できる便利な時代になりました。

 思い起こすならば2013年、A国の地方に住み始めた年に洪水が発生しました。その時にはすぐに日本の諸教会にメールで祈りのお願いをしました。「教会の皆で祈りました」というお返事をすぐに頂いたことが、自宅近辺で腰ぐらいまでの水が押し寄せ、1週間近くも外出できない中でどれほど力強く思ったことでしょう。結果的に自宅はあと数センチぎりぎりの所で床上浸水からは守られ、神様に感謝しました。リアルタイムで情報が伝えられる時代であることをその出来事を通しても実感しました。

 現在はそのような情報伝達には便利な時代ですし、また最近はリモートでの報告の機会も増えましたが、やはり直接顔と顔を合わせてお話しするということに勝るものはないように思います。

 

3.不足しているものを補うこと

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 1年間帰国した2011年は、長女は小学校1年生になり、また長男は幼稚園の年少組になる年でした。それぞれ数年間海外で暮らし、海外生活の方が日本よりも期間が長くなっていました。文化や風習も違う中で、子供たちも日本での生活に当初戸惑うこともあったと思いますが、長女も長男もそれぞれ日本の学校や幼稚園に1年間通うことができたことは、今までの日本語経験の不足を補うという面でも本当に良い時だったと思います。

 海外で子供が育つと、母語の問題、また子供自身のアイデンティティがはっきりしなくなることも多いと耳にしたことがあります。日本人でもなく、A国人でもない、自分はいったい何人なのだろうかという悩みです。最近はサードカルチャーキッズという言葉も生まれ、この問題が提起されてきています。私たちに関して言えば、この2011年の1年間というまとまった期間の帰国は、子供なりに自らのアイデンティティというものを、日本語という母語も含めてある程度確立していくための助けになったのではないかと考えています。1年間、毎日楽しそうに学校に通っていた姿が印象的でした。

 思い返すと、2011年は今までの歩みの中で、1年間日本に帰国をした唯一の年となりました。これ以降、宣教第2期はA国の地方で集まりを新しく始めたこともあり、その働きを放置して長期間帰国をする訳にもいかず、1年間というまとまった期間の帰国は難しくなりました。

 そのような中で、私たちは現地の働きの実情に応じて、また現地で特に第2期は海外でホームスクールを始めたこともあり、子供たちの日本語教育の補完のためにも、派遣教会と宣教団体の理解のもと、2011年以降は1年単位で短期の帰国を繰り返すこととなりました。

 当時子供たちにとっては例え短い期間であったとしても帰国でき、日本という環境や日本語に直接触れることができたことは、長い目で見て良かったと思っています。

 

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宣記24【1期】地方へのビジョン

 2007年4月にA国に渡り、現地語の学びからスタートしましたが、一度A国の地方の様子も見てみたいという思いの中で、その年の7月に首都から300キロ離れたある地方のB市に行く機会がありました。その時は何かの理由があってその街を選んで行ったわけではないのですが、その街への訪問は、後の働きにつながる布石となりました。

1.地方への思い

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 渡航少なくとも1年間は首都にて言葉の学びに専念し、首都にある教会で何年か奉仕をした後、A国の中のどこかの場所で、新しく集まりを始める働きができたらという願いがありました。首都には既に教会がいくつもありましたので、どちらかといえば私の心、そして思いは次第に地方の街の方へと向いていきました。

 それがもし神が導いておられることならば、行くべき場所を悟れるように祈っている中で、2007年の7月に一度訪問した地方B市の光景が頭から離れませんでした。やがてB市に対して特別な思いを抱くようになりました。

 しかし、首都を離れてA国の地方の街に家族で一緒に住むというのは、困難や課題がたくさんあるように思われました。地方の街には首都とは違い、生活に便利なスーパーマーケットや総合病院などはほとんどありません。何か大きな病気をしたときには、首都もしくは離れた別の大きな街まで行かなくてはなりません。決断には時間を要しました。

 2007年に日本からA国に渡った時も、私にとっては聖書のヨシュア記に登場するヨルダン川をまるで渡るような思いでの渡航でした。かつてA国に行くことを決心した際、その決心の先にあるものは何も見えませんでした。見た目には不可能にも思えました。しかし、神様を信頼して一歩を踏み出した時に、神様は実際にA国にまで私たち家族を連れてきてくださったことを思い出します。

 そして今、自分の目の前に大きな川がもう一度現れたような思いでした。何度も何度も信仰を要するチャレンジが目の前に登場する。ひとつの川を神の助けによって越えたら、また川が現れる。その繰り返し。それが信仰によって歩む人生なのだと思わされます。

 普通に考えますと、A国で地方の街に幼い子供を連れて引っ越しをし住むことは、色々なリスクがあることでした。実際にA国の人にもそのことを心配されました。しかし、もしこのビジョン、そして志が神から来ているのであれば、信仰もって一歩踏み出す時に、ヨシュア記にあるヨルダン川の出来事のように必ず道は開かれると信じました。そうして祈りのうちに、いずれ首都を離れ地方のB市に移住して、新しい集まりを始める働きを行う決断をしました。

 後に、首都での働きを終えて、実際にB市に引っ越すことになったのは2013年でしたから、ビジョンが現実のものとなるには、初めてB市を訪問した2007年から実に6年間も経っていました。しかし、神が与えてくださったビジョンは、時間がかかっても実現するということを、目に見える形を通して教えられました。

 私がこのB市に行くことを決断した時に、ほとんど知っている人はこのB市にはいませんでした。住む家も決まっていませんでした。どのような働きをするのかも具体的には見えていませんでした。しかし、今の時点から過去を振り返ってみるなら、確かに神様は私たちをこのB市という場所へ導いてくださったことをはっきりと見ることができます。

 家探しは難航しましたが、神様は与えてくださいました。この地でなすべきことも神様は教えてくださいました。そして、協力して働く方々も、神様は備えていてくださいました。

 はじめの一歩を踏み出す時は、これらのものは何も見えていませんでした。足を踏み出す時には信仰と神への信頼が必要でした。しかし、一歩を踏み出す前ではなく踏み出した後に、全て必要なものを神様は備え与えてくださったのです。

 

2.導きを確信するために

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 神様が心の中に何かの志や新しいビジョンを与えて下さったときに、それが自分の思いから来ているのか、それとも神から来ているのか、それが本当に神様が望まれていることなのかどうかを判断し確信するのは、時に時間がかかることですし、時に不安の中でも前に進んで行かなければならない時もあり、進む中で確信が深まっていくこともあるのだと思います。

 私にとっては、首都からB市に働きの拠点を移すことが、本当に神の導きなのだろうか。また、その後2019年には、そのB市での働きを終えて、再度首都に戻ることになりますが、それは神のみこころに沿っているのだろうか、大変悩みました。他にも宣教の働きの中で大きな選択を迫られることがありましたが、何か大きな決断をする時には、考える時間が与えられている中で、時間をかけて祈り、聖書のことばを心に留めつつ、様々な可能性を紙に書きだして熟考しました。そして夫婦で話し合いました。

 みことばと祈りを通して、ご聖霊は確信を与えてくだいますが、何かを決断する際に、遣わされている者の一人として行った他のいくつかのことを以下に記します。(これらは私個人としての様々な体験から書いています。)

 

①派遣教会と相談

 宣教師は母国にある派遣教会から宣教地に遣わされた者であって、基本的に派遣教会の方針から離れて活動をすることはありません。大きな決断、また宣教の働きを左右するような選択をしなければならないときには、まず派遣教会の牧師、教会の役員会にも相談し、派遣教会としても平安がある決断ができるように祈って頂きました。派遣教会から祈られているというのは、大きな力ともなりました。(もし宣教団体とのつながりが深い場合は、団体と相談することもまた必要でしょう。)

 

②他の宣教師に相談

 A国で働いている知人のベテラン宣教師にも様々なことを相談しました。A国で長い経験を持っておられる宣教師の客観的な視野からのアドバイスはとても貴重なものでした。

 ある宣教師はこう言います。「A国では4月に大きな決断はしない方がよい。」A国で4月は気温が40度を超えるほどの一番暑い時期で、頭も身体も暑さで疲れ弱る中で、集中して何かをするのは難しい時期です。そのような時期に、今後の働きを左右するような大きな決断はしない方がよいという勧めでした。バランスの取れた決断は、熱い心と冷静な視点の両面から来るものだと思います。

 

③今までの歩みや導きを振り返る

 神様は、いきなり突拍子もないような方向へと導かれるお方というよりも、段階的にある方向へと導いてくださるお方だと思います。(もちろん神様がなされることは人間の思いをはるかに超えることもありますが。)

 もし将来的に神様が何かの方向に導かれているならば、その方向性は、今まで導きの中で歩んできた道と大きくかけ離れていたり、大きく矛盾したりするということは少ないのではと私は思っています。

 神様は将来進むべき道のために、何か布石のようなものを今までの過去の歩みの上に置いておられることがあるかもしれません。(私の体験では、B市への移住を決断する際には、なぜか私の周りにいる知人の中で、B市出身の方々に出会う機会が多かった気がします。)

 

④神におゆだねし、自分自身がより平安がある方向に進む決断をする

 主に祈り、主を信頼して、その上でもし誤った決断をするならば、神様はそのことをその人に示され、その門を閉じることもおできになる。主に信頼を寄せる者が、間違った決断のまま進んでいくことを、神様はそのままほったらかしにはされないと私は信じています。

 時間をかけて祈る時に、だいたい選択肢は絞られていくのですが、その上で最終的に選択や決断が迫られる時には、神を信頼しつつ自分自身がより平安がある方向に進むこととしました。私は「石橋を叩いて渡る」性格で、なかなかすぐには決断がしにくい者です。実際、宣教の働きというものは決断の連続なのですが、神様は様々なことを通して、いつも良い決断へと導き、そして背中を押して新たな一歩を踏み出すことを助けてくださるお方であると私は信頼しています。そして、決断して一歩を踏み出す時に、神様は確かに道を開いてくださることを何度も経験してきました。

 私たちが後に働きのためにB市に引っ越しをしようとした時、その街で住む家を探すことは困難を極めました。不動産屋などもない場所で、バイクを借りて地道に「貸家」の張り紙がある家をB市の街中探してまわりました。1週間が近づいても、なお住居が見つからず失望しかけていた時に、ある知人宣教師が以前こう言っていたのを思い出しました。「あなたがその場所に行くことが神のみこころならば、必ず家は与えられますよ。」この言葉は、本当に私を励ましてくれました。

 そして、その通り、1週間かかりましたが、ようやくここが神様の備えだと確信できる場所が見つかったのです。神様ははっきりとこの場所で働きの門を開いてくださったことを確信した瞬間でした。神は環境や状況の中でも働かれ、時に疑ってしまうような者の確信を様々なことを通して強めてくださるのです。

 

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ2:13)

 

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