南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記24【1期】地方へのビジョン

 2007年4月にA国に渡り、現地語の学びからスタートしましたが、一度A国の地方の様子も見てみたいという思いの中で、その年の7月に首都から300キロ離れたある地方のB市に行く機会がありました。その時は何かの理由があってその街を選んで行ったわけではないのですが、その街への訪問は、後の働きにつながる布石となりました。

1.地方への思い

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 渡航少なくとも1年間は首都にて言葉の学びに専念し、首都にある教会で何年か奉仕をした後、A国の中のどこかの場所で、新しく集まりを始める働きができたらという願いがありました。首都には既に教会がいくつもありましたので、どちらかといえば私の心、そして思いは次第に地方の街の方へと向いていきました。

 それがもし神が導いておられることならば、行くべき場所を悟れるように祈っている中で、2007年の7月に一度訪問した地方B市の光景が頭から離れませんでした。やがてB市に対して特別な思いを抱くようになりました。

 しかし、首都を離れてA国の地方の街に家族で一緒に住むというのは、困難や課題がたくさんあるように思われました。地方の街には首都とは違い、生活に便利なスーパーマーケットや総合病院などはほとんどありません。何か大きな病気をしたときには、首都もしくは離れた別の大きな街まで行かなくてはなりません。決断には時間を要しました。

 2007年に日本からA国に渡った時も、私にとっては聖書のヨシュア記に登場するヨルダン川をまるで渡るような思いでの渡航でした。かつてA国に行くことを決心した際、その決心の先にあるものは何も見えませんでした。見た目には不可能にも思えました。しかし、神様を信頼して一歩を踏み出した時に、神様は実際にA国にまで私たち家族を連れてきてくださったことを思い出します。

 そして今、自分の目の前に大きな川がもう一度現れたような思いでした。何度も何度も信仰を要するチャレンジが目の前に登場する。ひとつの川を神の助けによって越えたら、また川が現れる。その繰り返し。それが信仰によって歩む人生なのだと思わされます。

 普通に考えますと、A国で地方の街に幼い子供を連れて引っ越しをし住むことは、色々なリスクがあることでした。実際にA国の人にもそのことを心配されました。しかし、もしこのビジョン、そして志が神から来ているのであれば、信仰もって一歩踏み出す時に、ヨシュア記にあるヨルダン川の出来事のように必ず道は開かれると信じました。そうして祈りのうちに、いずれ首都を離れ地方のB市に移住して、新しい集まりを始める働きを行う決断をしました。

 後に、首都での働きを終えて、実際にB市に引っ越すことになったのは2013年でしたから、ビジョンが現実のものとなるには、初めてB市を訪問した2007年から実に6年間も経っていました。しかし、神が与えてくださったビジョンは、時間がかかっても実現するということを、目に見える形を通して教えられました。

 私がこのB市に行くことを決断した時に、ほとんど知っている人はこのB市にはいませんでした。住む家も決まっていませんでした。どのような働きをするのかも具体的には見えていませんでした。しかし、今の時点から過去を振り返ってみるなら、確かに神様は私たちをこのB市という場所へ導いてくださったことをはっきりと見ることができます。

 家探しは難航しましたが、神様は与えてくださいました。この地でなすべきことも神様は教えてくださいました。そして、協力して働く方々も、神様は備えていてくださいました。

 はじめの一歩を踏み出す時は、これらのものは何も見えていませんでした。足を踏み出す時には信仰と神への信頼が必要でした。しかし、一歩を踏み出す前ではなく踏み出した後に、全て必要なものを神様は備え与えてくださったのです。

 

2.導きを確信するために

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 神様が心の中に何かの志や新しいビジョンを与えて下さったときに、それが自分の思いから来ているのか、それとも神から来ているのか、それが本当に神様が望まれていることなのかどうかを判断し確信するのは、時に時間がかかることですし、時に不安の中でも前に進んで行かなければならない時もあり、進む中で確信が深まっていくこともあるのだと思います。

 私にとっては、首都からB市に働きの拠点を移すことが、本当に神の導きなのだろうか。また、その後2019年には、そのB市での働きを終えて、再度首都に戻ることになりますが、それは神のみこころに沿っているのだろうか、大変悩みました。他にも宣教の働きの中で大きな選択を迫られることがありましたが、何か大きな決断をする時には、考える時間が与えられている中で、時間をかけて祈り、聖書のことばを心に留めつつ、様々な可能性を紙に書きだして熟考しました。そして夫婦で話し合いました。

 みことばと祈りを通して、ご聖霊は確信を与えてくだいますが、何かを決断する際に、遣わされている者の一人として行った他のいくつかのことを以下に記します。(これらは私個人としての様々な体験から書いています。)

 

①派遣教会と相談

 宣教師は母国にある派遣教会から宣教地に遣わされた者であって、基本的に派遣教会の方針から離れて活動をすることはありません。大きな決断、また宣教の働きを左右するような選択をしなければならないときには、まず派遣教会の牧師、教会の役員会にも相談し、派遣教会としても平安がある決断ができるように祈って頂きました。派遣教会から祈られているというのは、大きな力ともなりました。(もし宣教団体とのつながりが深い場合は、団体と相談することもまた必要でしょう。)

 

②他の宣教師に相談

 A国で働いている知人のベテラン宣教師にも様々なことを相談しました。A国で長い経験を持っておられる宣教師の客観的な視野からのアドバイスはとても貴重なものでした。

 ある宣教師はこう言います。「A国では4月に大きな決断はしない方がよい。」A国で4月は気温が40度を超えるほどの一番暑い時期で、頭も身体も暑さで疲れ弱る中で、集中して何かをするのは難しい時期です。そのような時期に、今後の働きを左右するような大きな決断はしない方がよいという勧めでした。バランスの取れた決断は、熱い心と冷静な視点の両面から来るものだと思います。

 

③今までの歩みや導きを振り返る

 神様は、いきなり突拍子もないような方向へと導かれるお方というよりも、段階的にある方向へと導いてくださるお方だと思います。(もちろん神様がなされることは人間の思いをはるかに超えることもありますが。)

 もし将来的に神様が何かの方向に導かれているならば、その方向性は、今まで導きの中で歩んできた道と大きくかけ離れていたり、大きく矛盾したりするということは少ないのではと私は思っています。

 神様は将来進むべき道のために、何か布石のようなものを今までの過去の歩みの上に置いておられることがあるかもしれません。(私の体験では、B市への移住を決断する際には、なぜか私の周りにいる知人の中で、B市出身の方々に出会う機会が多かった気がします。)

 

④神におゆだねし、自分自身がより平安がある方向に進む決断をする

 主に祈り、主を信頼して、その上でもし誤った決断をするならば、神様はそのことをその人に示され、その門を閉じることもおできになる。主に信頼を寄せる者が、間違った決断のまま進んでいくことを、神様はそのままほったらかしにはされないと私は信じています。

 時間をかけて祈る時に、だいたい選択肢は絞られていくのですが、その上で最終的に選択や決断が迫られる時には、神を信頼しつつ自分自身がより平安がある方向に進むこととしました。私は「石橋を叩いて渡る」性格で、なかなかすぐには決断がしにくい者です。実際、宣教の働きというものは決断の連続なのですが、神様は様々なことを通して、いつも良い決断へと導き、そして背中を押して新たな一歩を踏み出すことを助けてくださるお方であると私は信頼しています。そして、決断して一歩を踏み出す時に、神様は確かに道を開いてくださることを何度も経験してきました。

 私たちが後に働きのためにB市に引っ越しをしようとした時、その街で住む家を探すことは困難を極めました。不動産屋などもない場所で、バイクを借りて地道に「貸家」の張り紙がある家をB市の街中探してまわりました。1週間が近づいても、なお住居が見つからず失望しかけていた時に、ある知人宣教師が以前こう言っていたのを思い出しました。「あなたがその場所に行くことが神のみこころならば、必ず家は与えられますよ。」この言葉は、本当に私を励ましてくれました。

 そして、その通り、1週間かかりましたが、ようやくここが神様の備えだと確信できる場所が見つかったのです。神様ははっきりとこの場所で働きの門を開いてくださったことを確信した瞬間でした。神は環境や状況の中でも働かれ、時に疑ってしまうような者の確信を様々なことを通して強めてくださるのです。

 

神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。(ピリピ2:13)

 

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