南の国の風と共に

南の国の教会で働いているミッショナリーのメモ

「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る」

 最近、教会に集っている2人の女子中学生が福音を受け入れる決心ができたことは感謝でした。そのうちの一人の中学生に聞きました。「今まで福音を聞いたことはなかったの?」

 「実は…」とその中学生。「以前住んでいた所に、ある教会から人が来て近所の子供たちのための集会をしてくれました。それに参加したことはあります。」話を聞くとその時には信じるには至らなかったようでした。でも、あるクリスチャンによって確かにその時に福音の種まきはなされていました。

 ここしばらく訪問を続けている家があります。その家のご主人は言いました。「幼い時に、近くの教会からクリスチャンが訪問してきたことを覚えているよ。」そのクリスチャンがいろんな話をしてくれたことを懐かしそうに振り返っていました。まだそのご主人は信仰を持つには至っていません。でも、あるクリスチャンによって幼い時に蒔かれた福音の種は確かにその方の心に残っていました。

 CSに子供を快く送り出してくださる家のお父さんに会う機会があり話したことがあります。「若い時に何度か教会に行く機会があってね。」教会に対しての良い印象が残っているようでした。また、私の知人の牧師が田舎で子供集会を開催した時、そこで集まるための場所を提供してくださった未信者の方がいました。「かつて大虐殺の時代に国境に逃げたのだけど、そこでクリスチャンの方々にとても良くしてもらったからね」と話していたそうです。かつて名も知らないクリスチャンの誰かによって蒔かれた種は、何十年経っても人々の心に留まり続けています。そして次世代につながろうとしています。 

 ある交わりの中で、この国の牧師が語った言葉が心に残っています。「この国での働きの多くは種まきのようなものですよね。」キリスト教に対する偏見や圧迫が強いこの国で、福音を宣べつたえることは他の国と同様に決して簡単なことではありません。すぐに実を見ることは少ないかもしれません。「でも」とその牧師は付け加えました。「私たちが蒔いた種を10年後か20年後にでも誰かが刈り取ってくださったら嬉しいですね。」

 私たちが蒔いた福音の種を、自らが刈り取ることができるならば感謝です。でも、多くの場合、私たちが蒔いた種をいつか分からないけれども誰かが刈り取るだろうと、そのことに希望をおきます。その希望を見つめて、地道に福音の種を蒔き続けるのが宣教の働きかもしれません。その上で時々、神様はかつて他のどなたかが蒔いた種を刈り取る機会を与えてくださる時があるように思えます。そのことを通して神様は蒔き続けることをあきらめないようにと、種を蒔く者を励ましてくださっているように感じるのです。種の無いところに実は決してならないのですから。