南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記37【2期】聞かれる祈り

 「祈られていることを決して忘れることのないように。」あるベテラン宣教師の一言は今でも心に強く残っています。パウロも聖書の中で「祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。」と書いています。

 祈りには力があります。祈りは様々な出来事に変化をもたらすのです。振り返る時に、多くの方々の祈りによって、A国現地での働きが進められてきたことを思います。宣教の働きの中で、祈りの力というものを強く実感させられてきました。

1.近所の女の子家族との出会い

 しい集会所で、日曜学校が始まり、また現地語礼拝も始まるようになりました。その中で、集会所のそばに住んでいた小学生の女の子が毎週集会に来るようになりました。そんなある日、聖書を自宅から持ってきた女の子。「あれ、どうして聖書を持っているの?」と聞くと、「ひいおばあちゃんがアメリカに住んでて、アメリカでクリスチャンなの」と。「へえ、そうだったんだ。」

 おそらくその女の子のひいおばあちゃん、遠く離れたアメリカからA国に住んでいる親族のためにも祈っておられるんだろうなと想像しました。そして、ひ孫が私たちの教会に来て福音を聞き、福音を受け入れたことをもし知ることがあったら、ひいおばあちゃんはさぞかし嬉しいことだろうとも思いました。

 そのような出来事があって後、その女の子のお母さんも私たちの教会の特別な集会に何回か来てくださり、福音を聞いてくださり、反応してくださったことは感謝なことでした。

 新しい集会所があった場所は、以前にも書きましたが、場所探しが難航していた中で、神様の導きによってようやく与えられた場所でした。もしかしたら、その背後には、女の子のひいおばあちゃんの祈りもあったのかもしれない。その中で、神様は私達を新しい集会所があった場所に導かれ、近くに住んでいたこの女の子家族に出会い、女の子家族が福音を聞けるように導いてくださったのかもしれない。これは想像にすぎませんが、もしそうだとしたら、神様が私たちを用いてくださったことは本当に嬉しいことです。

 神様は私達にとって見知らぬ誰かの祈りによって私達を動かされることもある。私たちの周りの人たちとの出会いも、また様々な出来事も、見知らぬどなたかの祈りによってみこころのままに導かれることがある。そのことを改めて感じさせられた出来事でした。祈りは聞かれるのです。そして神は祈りによって、私たちも知らないどなたかを動かされることがあるのです。

2.祈りによる励まし

 る日、A国内で車を運転していて、車の調子が急に悪くなったことがありました。車を一旦停めましたが、周りに何もない所で、もしこのまま車が動かなくなったらどうしようと不安が襲ってきました。その時、そのタイミングで電話がかかってきたのです。知人の牧師からでした。何気ない挨拶の電話でしたが、その牧師は最後にこう言いました。「先生、祈っていますよ。」その言葉は不安にかられていた私に力を与えてくれました。その後、車も何事もなく目的地まで運転することができました。

 宣教地にいると、そのようなことを何度も経験しました。事あるたびに、祈られていると実感しました。ハプニングや問題が起きて、気落ちしている時に、力を失っている時に、どなたからの連絡がふとあったりします。メールがあったり、訪問があったりします。その方は何も意識していなくても、その方の行動によって励まされたということがありました。パウロもこのように書いています。

「気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。(Ⅱコリント7章)」

 神様は多くの場合、他者を通して私たちを助けてくださいます。祈りを用いられます。そして他者や祈りを通して私たちを励ましてくださるのです。

3.祈りによる力

 でも思い出すのは、新しい集会所に移って5年目に行われた特別集会でした。ご近所の方々、また今まで関係を築いてきた方々をお誘いし、特に教会に行くのは初めてという方を対象とした集会でした。

 その集会のために首都から知人の牧師をお招きしました。様々な計画をし、準備をして、あと1週間というタイミングで、突然数名の警察官が教会に踏み込んできたのです。不審な外国人が大勢集まっているという噂を耳にしての事情聴取でした。そんな事実は何も無いのですが、2日間かけて聴取は行われました。

 2日目は家族や子供たちも警察のもとに呼ばれました。突然のことでしたので驚き、家族も巻き込まれたことに、大変不安に思いましたが、母教会をはじめ、このことを知った日本のクリスチャンの方々の祈りも背後にあり、最終的に警察側の誤解は解け、お互い笑顔での解放となりました。

 そして特別集会の当日、首都からゲスト説教者が無事に到着しました。その晩に集会は予定されていました。しかし、夕方からの大雨により、長時間停電し集会所は真っ暗。また至る所の道も冠水し危険な状態でした。来られる方々の安全のために急きょ集会を中止し、翌日に延期することにしました。その時にも、母教会、また多くの日本の方々の祈りがありました。

 延期となった翌日も大雨が降りましたが、集会前に雨はぴたっと止みました。また集会中に、前日同様に急に停電したのですが、ちょうどゲスト説教者の説教の前に電気は復旧したのです。不思議なタイミングでした。

 説教者によって福音が分かりやすく語られ、応答する方々も起こされたことは感謝でした。そして同時に、多くのハプニングがあった中でも、神様の守りがあったこと。それは多くの方々によって祈られた祈りの力でもあることを改めて思いました。

 これらのことは、いつまでたっても決して忘れることのできない思い出です。改めて、A国での働きのために祈ってくださっていた皆様に心から感謝します。

 

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宣記36【2期】実感する神の守り

 A国で地方に住むということ、特に外国人で家族連れは大変だと現地の方々からも心配されました。首都であれば、大きな病院もありますが、地方ではそのような病院はありません。もし地方で大けがや、大きな病気をした場合は、遠く離れた首都もしくは他の大きな街の病院などに行かなければなりません。

 私たちは6年間に渡って地方(B市)に住みましたが、病気に関しては、デング熱マラリヤなどの大きな病気や致命的な事故などから守られたことを神様に感謝しています。何度か、治療のために首都の病院に行く必要はありましたが、緊急搬送を要するものではなかったことは、神様の守りでした。

1.牧師の子供の突然の病

 方に住んでいた時に印象深い出来事がありました。知人でもある現地の牧師家族が、ある時B市の私たちのもとを訪問してくれたことがありました。その日は街のホテルに泊まったのですが、深夜に緊急の電話がホテルから私のところにかかってきたのです。

 牧師の幼い息子さんが急に吐血をしたとのことで、すぐにこの街の病院に行きたいとの連絡でした。私はあわててホテルに駆け付け、牧師ご夫妻と幼い息子さんを深夜でも対応な可能な病院に連れて行きました。

 そこの医者は幼い息子さんの状態を見て一言。「ここ(B市)では対応は無理です。早く大きい街の病院に搬送した方が良い。」

 私たちが住んでいたB市から一番近い大きな街まで距離にして150キロ以上はあります。しかも深夜のことでした。しかし緊急を要するため、救急車(A国では有料です)を手配し150キロ離れた街の病院まで真っ暗な中を搬送することになりました。牧師の奥さんは突然なことで気が動転し、同乗した緊急搬送中の救急車内でもずっと祈っていたと後で聞きました。

 次第に明け方になって、走行中の救急車の車内にも薄明かりが差し、ふと車窓から外を見ると、そこにはちょうど道沿いに教会が建っていたそうです。そして夜明けの教会の屋根の十字架が奥さんの目に入ってきました。

 「あの十字架は本当に私にとって励ましでした。」と奥さんが後に語っておられた言葉を忘れることはできません。

 神様は今この時も共におられるのだと、神様は私たちを見捨てずに守ってくださるのだと。神様はそのことを通しても牧師夫妻を励ましてくださったのだと思います。

 その後、搬送先の病院で幼い息子さんは回復が与えられ、今は成長し元気にしています。祈りを聞いてくださった神様に感謝します。

2.車の突然の故障

 都から私たちが働きをしていた地方へは、車やバスでの移動しか手段がありませんでした。この国ではとても交通事故が多く、社会問題となっています。多くの車はスピードを出しすぎるのです。移動のために長距離バスに乗っていても、あまりのスピードに事故をしないかと冷や冷やします。少しでも運転手がハンドル操作を誤ったら、死亡事故に直結するからです。

 そのため、バスの横転事故なども多く、私の知人牧師が乗っていた大型バスも事故で横転したことがありました。それもB市の協力教会で説教するために首都から移動していた時のことでした。神の守りによって牧師は怪我もなく、その晩、普通に教会で説教をしていたのが印象的でした。

 「今日、この教会に来る時に乗っていたバスが横転しましてね。」牧師の説教の最初の言葉を聞く聴衆に驚く様子が見られなかったことに、私は逆に驚いたものです。A国ではよくある話なのでしょう。ですから、いつもバスに乗る時は祈りが欠かせませんでした。

 自分で車を運転するときは、事故がないようにかなりの気を使います。いくらこちらが注意していても、逆走車や交通ルールに違反している車が多く、それで事故をした場合は例え相手の方に非があったとしても、外国人ということだけでこちらの分が悪くなりますので、運転するだけで大変疲れます。また特に地方の道は、道中周りに何もないので、車の突然の故障にも心配します。祈りながらの運転です。

 ある日のことでした。首都から自宅への帰り道、私が運転していた車が突然故障して立ち往生したことがありました。周りを見てもそこは小さな村で車を修理できるような場所はなさそうでした。A国には日本のように電話一本で修理や救援に駆けつけてくれるような便利なシステムなどはありません。

 どうなることやらと途方に暮れました。とりあえず動かなくなった車を降りて、目の前の場所にいた人に「このあたりに修理屋はないですか?」と尋ねました。すると「ここですよ。ここが修理屋です」との意外な答えがあったのです。

 えっ?と思いその場所をよく見ると、ちょうど看板製作中で、まだ掲げられていない新しい看板には確かに修理屋の文字があります。その人に言われるまで全く気が付きませんでした。

 よくよく話を聞くとそこにいた若い職人さんは首都で数年間経験を積み、田舎に帰って自分の修理屋を開業する準備の真っ最中だったとのこと。その修理屋の前で丁度故障して動かなくなった私の車を見て、壊れた部品を首都から取り寄せ、一晩かけて的確な修理をしてくれました。私たちは近くの町で一泊し、翌日に修理が終わった車を受け取った時には、修理屋の新しい看板がその場所に掲げられていたのです。

「明日からオープンです。お客さん第一号は日本人でしたね。」と笑う職人さん。印象的な出来事でした。神の守りを実感した時でした。

 宣教の働きの中で、気落ちするような出来事は多々ありますが、時々神様は不思議なことを通して、励ましてくださるお方です。神様に寄り頼むしかない状況であればあるほど、神様の守りを強く実感することが働きの中で何度もありました。

 

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宣記35【2期】子供たちから教えられたこと

 聖書の中で、イエス・キリストはこのように言われています。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」(マタイ19章)
 B市での教会の働きの中で、現地の子どもたちに関わることも多かったのですが、子どもたちから教えられることも多くありました。

1.素直な目

 しい集会所にて、勉強クラブから集会所に集まるようになった近隣の子供たちは、日曜学校にもつながるようになりました。新しい集会所で始められた毎週の日曜学校は午前と午後の2回行われ、賛美と聖書からのお話、そして聖書イラストの塗り絵にゲームなどが主なプログラムでした。

 中でもA国の子供たちは塗り絵が大好きで、時間をかけてきれいに塗っていたのが印象的でした。家にも色鉛筆は無く、教会でしか塗り絵をすることができなかったのでしょう。男子中学生でさえも喜んで塗り絵をする光景は微笑ましくもありました。

 日本だと太陽は赤、また川は水色で塗る子供たちは多いかと思います。しかし、A国では太陽は黄色や白、また川は茶色だったりします。最初は驚きましたが、よく考えると現地の子供たちの視点で、見たままの色がその色であることに気づきました。逆に日本人として、「太陽は赤やオレンジ色、川は水色」という固定観念があることに気づきました。

 海外の現地で働きをする時に、日本で生まれ育ってきた中で知らず知らずのうちに身についてしまっている固定観念というものが、時に邪魔をすることがあります。私の場合、日本の教会で育ってきた中で、日本的な教会の価値観というものが染みついてしまっているのです。

 それが問題というのではなく、その恩恵も受けているのですが、特に異なる文化で働きをする宣教師は気を付けないと、聖書からというよりも自分自身が持っている文化的な価値観から物事の良し悪しを判断してしまうことがあります。そして聖書ではなく、自分自身の文化から来ている価値観を、現地の教会や現地のクリスチャンたちに押し付けてしまうこともあるのです。

 パウロが「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。」と言っているように、福音をその文化の中で伝えていくために、自分の持っている価値観を一度見直すことは大事かもしれません。

 この価値観は、聖書からなのか、それとも自分が育ってきた背景からなのかと自分に問う作業です。そのためには子供のような素直な目、素直な視点が必要なのだと思うのです。

2.受けるよりも与える方が

ジュース

 曜学校には、比較的に貧しい家から来る子どもたちが多かったのですが、彼らと一緒に現地の賛美歌を歌ったりするのは、恵みの時でした。また、子供たちの素直な思い、そして応答にはっとさせられることが何度もありました。

 日曜学校が始まって、何度も教えた聖書のことばがあります。それは「受けるより与える方が幸いである。」受けることの恵み、それだけでなく与えることの素晴らしさを知ってほしいという願いがありました。
 そのような中である日曜日に、いつも来ている一人の小学生が1本のジュースを持ってきました。「先生、これどうぞ!」「えっこれ先生にくれるの?」「そうです!」無邪気な笑顔で渡された1本のジュースは、私にとっても励ましとなるプレゼントでした。
 毎週の日曜学校では、集まる子供たちの誕生日をささやかなプレゼントと共にお祝いするようにしていました。というのも、集まる子供たちの中には、両親が既に病気などでなくなっていたり、また両親共に出稼ぎで隣国に行っていて、祖母に預けられた子供たちのもとに戻るのが年に2回だけだったり、他にも複雑な事情の中にある子たちも多かったからです。
 家族の中で誕生日をお祝いしてくれる人がいないのなら、せめて日曜学校で皆でお祝いしようと思っていました。皆で誕生日をお祝いされた子供たちの嬉しそうな顔を忘れることはありません。

 そして、逆に私の誕生日には、子供たち何人かで相談し合ったのか、それぞれが少ないであろうお小遣いを出し合い、また高校生の男の子はバイクでケーキのお店まで買いに行く連携プレーで、サプライズのお祝いをしてくれました。その気持ちがとても嬉しかったです。

 日曜学校の子供たちの「受け取るばかりでなく、与えようとする」姿勢を見て、教えられたことを実践することの大切さを改めて私も実感しました。

 

3.一粒の飴

 もう一つ忘れることのできない出来事がありました。教会の集会の中で、「ささげる」ということについても聖書から教えることがありました。しかし集まる子供たちの家の多くは貧しく、お小遣いも少ない子供も多い中で、自分のものをささげることについて教えても、理解することは難しいのではという思いが正直ありました。

 しかし後日、集会の中でささげものの袋を回して、袋が返ってきた時、袋の中を見て驚きました。そこには一粒の飴が入っていたのです。一瞬、いたずらかなとも思いました。しかしよく考えてみると、これはある子供のささげものなのではないか。

 その子どもにとって、手元にあるもので自分がささげられるものは、一粒の飴だったのかもしれません。その飴を自分で食べることもできたはず。でも、その子供はそれを教会に持ってきて、袋の中に入れたのでしょう。

 ささげるということ、また自分のものを誰かに与えるということは、どんなに小さな子供でも行うことができる愛のあらわれであることを改めて思いました。神様はそのような子供たちの小さな行為を喜ばれるお方であると信じます。

 一粒の飴。小さな子供たちの思い。それは私にとっても印象深く、励ましとなる出来事だったことを覚えています。

「受けるより与える方が幸いである。」

 

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宣記34【2期】新しい集会所へ

  2013年からB市にある自宅の一部を開放して勉強クラブや日曜学校を行っていましたが、人数も増えつつある中で、様々な面で限界を感じ、自宅以外の場所で集会や活動をすることができればとの思いが生じてきました。祈りつつ新しい集会所探しが始まりました。

1.使われていない教会堂

 宅探しの時のように、一刻も早く見つけなければ寝る場所もないということはありませんでしたので、市内の各地区を時間をかけながら集会ができる場所を探していきました。またいろんな情報を集めましたが、その中で、現在使われていない閉鎖されている教会堂が市内にいくつもあることを知りました。

 A国では宣教師が教会を開拓するときに、大きく分けて2つの方法があります。1つ目はまず開拓を始める前に宣教師が土地を購入し、先に自分たちの教会堂を建てる方法です。その後で、伝道を開始して集まりを形成していきます。そして2つ目は会堂先行ではなく、宣教師の自宅やどなたかの家、また借りている場所にて、まず集まりを形成する方法です。A国でよく耳にするハウスチャーチ(家の教会)もそうでしょう。集まりが大きくなってきた段階で、必要があれば土地を購入し、そして会堂を建設しますが、会堂が絶対必要とは考えません。「会堂先行」か「集まり先行」かの違いです。

 当初私は2の方法(集まり先行)しか頭になかったのですが、A国現地では1の方法(会堂先行)を取る宣教師も多かったように思います。もちろん「教会」とは建物や会堂ではなく集まりのことを指しますが、地域や場所によっては会堂があることによってそのコミュニティに安心感を与えることもあるようです。

 日本でも地域によっては、会堂があることによって、その教会は地域から信頼されやすいと聞いたことがあります。目に見える会堂の存在が先にあることによって、一から伝道しやすいということもあるかもしれません。教会が置かれているそれぞれの地域の実情によって、何をすることがより良いのかを考える必要があります。

 しかし、私がA国で見たのは、そのように先行して建てられたであろういくつかの会堂が、その後様々な理由で集まりも無くなり、鍵がかけられたまま長年に渡って放置されているという現実でした。その現実を見て、いろいろと考えさせられました。

 私の知人の現地牧師は、地方の村で働きをしていましたが、ある時、別の教会の関係者から声をかけられたそうです。話によると、かつてその村には教会があったのだが、今は牧師もおらず、集まる人もいない。会堂もあるのだが、使われないまま放置されていると。ぜひその会堂を、使ってくれないかとのことでした。

 知人牧師はその話を受けて、これも神の導きと、その使われていない教会堂を使用することにしました。そしてそこで全く新しい集まりを始めたのです。そうしたら、村の子供たちや青年も多く集まってきました。まるで教会堂が再び息を吹き返したようでした。そのようなこともあるのだなと思ったことを覚えています。

2.新しい集会所

画像1

 のような中で集会所探しを続けていましたが、ある地区を通った時に、ひとつの貸家が目に入りました。(▲写真は借りる前の状態)

 一見、その建物は私が想定していたよりも少し大きい建物のように思いました。しかし、今から振り返って思うのですが、最初は想定とは違っていても、神様が備えていてくださるものは、最終的にはちょうど良いものであるということを経験しました。それこそがまさに主の備えなのです。

 この地区は、私の知る限りはキリスト教会のない地区でした。それは私の一番求めていたことでした。市場も近く、人の動きもある場所でした。協力関係にあった教会の牧師にもアドバイスを求めました。牧師は現地を見て、声を弾ませて言いました。「ここはいいですよ。もし私が場所を探すなら、ここにします。」その声も参考にしつつ、祈りの中で最終的にその場所を借りることとしました。

 A国のほとんどの家には、祠(ほこら)が置かれています。これは仏教からというよりも精霊信仰、アニミズムから来ているようです。家の守り神のようなイメージなのでしょう。A国の宗教はほぼ仏教のように思われていますが、実はいろんなものに対する信仰、習俗などが混合されているところがあります。中華系の家では、神棚のようなものも床に置かれ拝まれています。多くの人々は詳しい意味も分からずに、代々引き継がれているものを崇拝しています。

 新しく借りた場所にも、大きな祠がありましたので、大家さんにお願いして、祠を引き取ってもらいました。A国では家主が変わる時に、祠も新調することもあり、古い祠や神棚はそのまま捨てられることも多いとのこと。今まで拝まれてきたものが、そのままごみ捨て場に無造作に捨てられている(▼写真)という印象深い光景も何度も現地で見たことがあります。

 

3.活動の開始

  しい場所の契約も済み、早速汚れていた部屋を皆で掃除をして準備をし、新しい場所での活動を開始しました。今まで自宅の一角で行ってきた「勉強クラブ」をこの場所でも新しく始めました。新しい場所の近隣の方々とも、まず信頼関係を構築することがこれからの働きのために大事と思ったからです。

 「勉強クラブ」から「日曜学校」へとこの場所でもつながっていきました。今まで教会がなかった地区で、新しく集会が始まり、そして讃美歌の歌声が建物に響き渡るのは感無量の思いでした。

 

 その後も近隣の方々と出会い、いろんな話をする中で、今回新しく集会のために借りた建物には、以前欧米人らしき人物が住んでいたと聞きました。どうやらクリスチャンのようだったと。まずその方の存在があって、次に私たちがその場所に入ったというのは、不思議な神様の導きのように思えました。

 

 A国のコミュニティにとって、外国人が新たにコミュニティの中に入るというのは、最初かなり警戒されます。特に外国人慣れしていない場所はなおさらです。しかし、私たちの前に住んでいた西洋人の方が、近隣の方々に良い種を蒔いていたことにより、私たちは比較的スムーズにそのコミュニティに入っていくことができたのだと思います。(▲写真は集会所周辺の様子)

 

 私はその建物を借りる時には、そのいきさつを全く知らなかったのですが、そのように後から気づかされて、神様のご計画の緻密さを改めて想い、感謝するということは宣教の働きの中でよくありました。

(▲集会所として使っていた頃の写真)

 

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宣記33【2期】キッズライブラリと日曜学校

 前回まで3回に分けて、勉強クラブの始まりから数年間の出来事について書きました。ここからは勉強クラブが始まった頃(2013年7月)に時を戻します。勉強クラブと時を同じくしてキッズライブラリ、そして9月には念願の日曜学校を始めることができました。

1.キッズライブラリの開始


 かつての大虐殺の時代に教育システムが壊滅したA国では、今なお基礎教育も十分とは言えません。学校の図書室にも本は少ないのが現状で、自分の本を持てる子はわずかです。そこで近隣コミュニティの子ども達のために、決められた時間帯に自宅の一部を開放して、一般の絵本や聖書のストーリーを分かりやすく描いた本などを備えた、小さなライブラリーのようなものができたら…という思いがありました。

 そのための絵本は、B市にある書店に行って買い揃えました。書店といっても、この国の書店で売られているのは、ほとんどが文房具で、売られている本は本当にわずかです。せいぜい児童向けの教科書や絵本などで、大人向けの書籍はほとんどありません。本を読むという習慣がA国にはほとんど無いのです。

 そのようにして、ある程度の絵本が揃ったところで「キッズライブラリ」を新しく始めてみました。実際に行っていく中でいろんな課題を感じました。自宅近隣のほとんどの子どもたちは、本を読みなれていないので、最初はいろんな絵本に飛びつくのですが、15分ぐらいしてくると、多くの子は頭が痛いと言い出します。最初の頃、1冊の絵本を最後まで読む子はほとんどいませんでした。集中力が終わりまで続かないのです。すぐに本を読むことを止めてしまい、遊ぶ方に夢中になってしまう光景がありました。 

    また、ある程度年齢を重ねていくと、たとえ小学生だとしても、幼い弟や妹の世話を多忙な親に代わってしなければならないようで、幼い兄弟を一緒に連れてきます。その場合、いつも幼い弟や妹の面倒を見なければならず、集中して絵本に向かうことがほとんど難しい状況でした。

 そういった中でも、やはり本が好きな子は何人もいるようでした。そういった子たちのためにはキッズライブラリは良い試みだったと思います。また聖書のストーリーが書かれた絵本もいくつか置いていましたが、その絵本に関心をもって、質問してくる子供たちもいました。改めて福音についてお話する良い機会ともなりました。

2.日曜学校の開始


 勉強クラブ、またキッズライブラリーが始まって2か月ほど経った9月に、日曜学校を自宅の一角で開始しました。これは勉強クラブとは違って、聖書を一緒に学ぶ時であること、そして参加にあたっては保護者の許可を頂いてくることを子どもたちに前もって伝えておきました。私も何度か子どもたちの自宅に伺って、親御さんと話す時もありましたが、総じて好意的でした。

 一番最初の日曜日、ドキドキしながら祈りつつその日を迎えましたが、20名ほどの子どもたちが集まってきたことは忘れません。一緒に賛美を歌ったり、そして聖書のストーリーをお話したり、最後にはゲームをしたりと楽しい時となりました。歌うことに慣れていない子どもたちも多く、最初はゆっくりと歌いつつ、何度も歌っているうちに自然と覚えて上手に歌えるようになりました。

 毎週の日曜学校に集まってくる子どもたちはとても元気で、その元気さに私の方がついていけなくなることがよくありました。他にも様々な問題が生じる中で、外国人である私たちだけで活動を続けることには限界があることが見えてきました。一緒にこれらの働きを担ってくださる助け手の必要を徐々に感じるようになりました。その中である教会と知り合うことになります。

 

3.他教会と協力をしながら

 A国の多くの教会(特に始まって数年の教会)は、やむを得ない事情から教会の看板や集会案内などを公に出していないところが多く、外からは教会の存在が分かりません。私たちが働きを始めたB市内でも、他に同じ信仰的立場に立つ教会があるかどうか、以前から調べてはいたのですが、分からないままでした。そんなある日、共通の知人を通して、そのような教会が同じB市内にも存在することが分かりました。

 早速、訪問したところ、その教会はフィリピン人の宣教師によって始められた教会でした。そして宣教師と色々と話す中で、同じ信仰的立場の者同士、バラバラで働きをするのではなく、協力できるところは協力し合って働きを進めていかないかとの提案がありました。この時から、この教会(B教会)との協力関係が始まることになりました。このB教会の青年たちが、勉強クラブ、また日曜学校の手助けに来て下さることになり、また私もこのB教会に赴いて説教などの支援することになりました。

 「宣教の働きは単独で行うのではなく、できれば複数で協力しあって、他の教会とも協力関係をつくりながら進んで行きたい。」という思いは私の中にいつもありましたし、結果的にこのやり方は私の性格にも合っていたのだろうと思います。

 この時から6年後、私たちがB市での働きを終えて首都に戻る時に、このB教会が私たちの開拓の働きを全面的に引き継いでくださったことは感謝でした。働きを引き継ぐときに、私の知人牧師が「開拓初期から協力関係をもって宣教をしていたので、互いのこともよく分かっているし、スムーズな引継ぎができますね。」と言っていたのが印象的でした。今から思うと、当初から全てのことに神の導きがあったように思います。

 B教会との協力関係の中で、それから1年ほど、自宅での勉強クラブ、そして日曜学校は続きました。多くの新しい子供たちが次々と近隣から集まってきて、聖書の話にも耳を傾けてくれたことは感謝でした。一方で大勢の子どもたちが集まるにつれて、自宅の一角でこのまま活動を続けていくことが難しく感じるようにもなりました。他にも様々な理由の中で、自宅以外で集会ができる場所を祈り求めるようになりました。

 

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宣記32【2期】勉強クラブ③

 手探りで始めた「勉強クラブ」。始めてみた中でA国の抱える多くの現実を目の当たりにしました。今回は、A国の多くの家族、家庭が抱える現実について感じたことの記録です。

1.家族の現実

 強クラブに集まる子供たちの自宅を定期的に訪問していました。私たちのことを知って頂くために、そして関係の構築を目的として訪問していました。

 驚いたことに、訪問した子供たちの家の多くには、両親の姿が見当たりません。最初は不思議に思いました。そしてよく話を聞くと、同居している祖母がその孫にあたる子供たちを育てていました。「子供たちのご両親はどちらですか?」と聞くと、「仕事で遠くに行っていてここにはいない」とのことでした。

 私たちが働きをした地方は隣国との国境に接していおり、隣国が近いため多くの両親は子供を実家に預けて、出稼ぎのために国境を越えて隣国に渡るケースが多いようでした。隣国に行った場合、子供たちのもとに帰ってくるのは正月と盆の1年に2回ほど。それも数日間とのことでした。そしてそのようなケースがこの地方では珍しいことではなく、かなり多いことに驚きました。勉強クラブ、日曜学校に参加する子供たちの多くは、両親共に不在なのです。

 ある時、集会のためにある村に行ったところ、その村にいるのは年配の方々、特に女性と子供たちだけでした。男性や若い人たちがいないのです。「皆仕事で隣国に行ったよ。」仕事がなく、家族を養うためには、家族や子供を残して遠い場所にまで出稼ぎに行かなくてはならない宣教地の現実を見ました。

 また、私が個人的に出会った20代の夫婦は、何度か教会の集会にも足を運んでくれましたが、子供が生まれてすぐ、遠い実家に赤ちゃんを預け、夫婦共働きで仕事をしていました。自分たちの赤ちゃんの成長を見れないのは寂しいが、ここで生活していくためには仕方がないとのことでした。両親が直接子供を育てないということは、事情があるとはいえA国では珍しいことではないということを知りました。

2.遠く離れた母へ

 々、勉強クラブや日曜学校を通して関わった何人かの幼い子供たちが、私に手紙を書いて教会のポストに入れてくれることがありました。その手紙の中で何度も書いてあった言葉は「2番目のお父さんへ」。それを見て微笑ましく思ったのと同時に、両親が近くにいないことに対する子供たちの複雑な思いを感じ取ったことを覚えています。

 その頃、教会に来ていた一人の高校生の男の子がいましたが、その子のお母さんも出稼ぎで長らく他国に行っており、この国では祖父母宅に同居していました。「高校卒業したら、首都に進学とか就職とかで行きたくないの?」とその高校生に聞きました。「いや、行きたくない。この街がいい。」「どうして?」「お母さんが帰ってきたら、一緒にずっと住みたいから。」高校生の男の子の発言にしては少し意外に思いましたが、母と長い間離れ離れになっているということから来るのであろう一抹の寂しさを彼の言葉から感じました。

 かつての大虐殺の時代にこの国の家族制度は崩壊したと言われています。強制的に家族は離散させられ、もし親が反体制的なことを口にしたら、子であっても告発するように教え込まれたと耳にします。上からの命令による強制結婚が広く行われたようです。その影響は、今なおA国の家族関係というものの中に強く残っています。家族親族以外の他人は誰をも信用しないという強いきずなを思わせる一面で、表現するのが難しいのですが、どこか言いようもないような希薄さをも感じることがありました。

 私の知人に対してある中年世代のA国人が言ったそうです。「自分は、子供をどう育てたらいいのか分からないんだ。」

 大虐殺の時代、そしてそれが終わった後の長い内戦と混乱期に、ある両親は殺され、ある両親は行方知れず。家族の愛やぬくもりというものを経験することがなかった世代。彼らはいざ自分たちが家庭を持ったときに、自らの中に家庭というものに対するイメージ、その模範や手本が無いことに困惑しているのです。

 いまA国の社会問題のひとつは家庭内暴力とも言われています。政府はマスメディアを使って、躍起になって啓発しなければならないほどに、多くの家庭でこの問題を抱えているようです。私たちがA国で関わった子供たち、その家族、また私たちの身近なところでもこの悲しい出来事を見聞きすることがありました。この国における家族というものの現実を、勉強クラブに来る子供たちを通して、改めて見せつけられました。

 その中で、神様が与えてくださる本当の愛、そして本当の平安と希望、救いを知ってほしいという思いで訪問を続けていましたが、残念ながら、キリスト教は家族を大事にしない宗教、家族を敬わない宗教という誤解がA国の中に強く浸透している事実も知りました。

3.保護者をお招きして

 のような現実の中で教会は、私たちは何ができるだろうかと考えました。後に教会としての活動が始まってからは、「家族」に焦点を当てて、子供のご両親や保護者、兄弟や親族を教会にお招きする特別な集まりを何度も行いました。また「本当の愛」をテーマにした特別の集会も行いました。家族の中でも「愛」というものが混乱し、傷つきあっている中にあって、まことの神の愛、そして希望というものについて、聖書から知って頂くことを目的としました。

 これらの機会を通して、普段子供たちを世話しているおばあちゃんたち、また保護者、親族の方々が教会に足を運んでくださり、聖書のことばを、また福音を耳にする機会があったことは感謝でした。

 福音は本当の意味で人を変え、そして福音を受け入れた者を通して、聖書のことばを通して、神の力、神の愛を知ることを通して、家庭もまたより良い方向へと変わっていくことができる。そこに希望があると信じて働きを続けました。

 

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宣記31【2期】勉強クラブ②

 A国で学んだことのひとつは「まずやってみる」思考でした。A国の人たちは何かを思いついたら即断即決、すぐに行動に移す人が多いように思います。これはクリスチャンや教会もそうです。まず実行しながら、見えてきた問題点をその都度改良していくのです。思い通りにいかなかった時に方向転換するのも早いのですが、いろいろと考えながら実行が遅くなってしまいがちな私にとっては、新鮮な考えでした。A国流に手探りの中で「まずやってみた」勉強クラブですが、実際に始めてみる中で多くの驚きやまた発見がありました。特に最初の時点で関わったバラックに住む子供たちのことは、今でも忘れることができません。

1.教育の現実

 強クラブを始めた当初、私たちの自宅の近くにはバラックがありました。(写真は自宅周辺)。電気も水道もない家に家族が住んでいました。毎朝バラックに住む子どもたちはバケツを持って近くの池まで水を汲みに行き、兄弟ふたりで水の入ったバケツをかついで家まで運んでいました。毎晩暗い中、ロウソクを灯してご飯を食べていました。そのバラックから数名の幼い兄弟たちが、勉強クラブが始まった時から参加してくれました。

 家は貧しくて子どもを学校に通わせるお金もなく、外国NPOの支援があってようやく通えている現状でしたが、それでも学校に行けたり行けなかったりという事情の中で、子どもたちは日本のように年齢と学年が一致していませんでした。それはバラックに住む子どもたちに限ったことではなく、勉強クラブに来る子たちの中には年齢が10歳を過ぎていても、小学2年生という子もいましたし、10歳以上でも数字を書くことができない子どもも来ることがありました。その子とは数字の書き方を1から一緒に勉強しました。

2.貧困の現実

 バラックに住んでいる子どもたちの中で、勉強に関心を示す子がいました。飲み込みの速さも感じました。しかし、その子が勉強クラブに来ると、母親がすぐ呼びに来て家に連れて帰ります。勉強する時間があれば、家の仕事を手伝いなさいということだったのでしょう。貧富の格差が大きいA国では、たとえ勉強ができたところで、貧しい家の子どもたちがお金のかかる高等教育を受けることは難しいことです。

 日本でも「貧困の連鎖」というキーワードがこの数年知られるようになりましたが、まさにA国の現状はその文字の通りでした。子の親にしてみれば、自分の子どもが何かの勉強ができたところで、その先に良い学校に行けるわけではなく、良い仕事につけるわけでもない。子の将来に何のメリットもない。それなら今、家の仕事を手伝わせた方がより良いと。そのような考えのようでした。

 この状況は街を離れ農村に行けば、より顕著のように思われました。農村では子どもは働き手であり、学校に行くことのできない子どもが多い現実を知りました。

 家の手伝いが忙しい中、合間を縫って勉強に来ている子どもたちを見て、勉強クラブがほんの少しでも彼らの助けになればという思いはありましたが、そんなに簡単な話でもありませんでした。子どもたちは、最初は勉強を頑張っていても、その多くは続かずに途中で止めてしまうケースが多いことを知りました。モチベーションであり、やる気が長続きしないのです。

 勉強を頑張っても、高校や大学に行けるわけではなく、その先に何か希望があるわけでもなく、頑張って努力して勉強する意味がないと思っているようでした。まるで幼い子どもの時から、将来に対する希望がなく、全てをあきらめていようでした。この国の貧困の現実を垣間見たようでした。

3.勉強クラブから日曜学校へ

 のような勉強クラブから出会ったバラックの子供たちですが、やがて自宅で始まった日曜学校にも来てくれたことは感謝でした。(日曜学校に関してはまた別の機会にも再度書きたいと思っています。)

 赤や白、黒などいくつかの色を通して福音を伝える「字のない本」という方法がありますが、それは文字が読めなくても福音を視覚的に理解できるので、私はA国でよく使いました。聖書のことばを耳から入れて心に留めさせる暗唱聖句にも力を注ぎました。

 日々の過酷な現実の中でも、明るい顔をして毎週の日曜学校に近隣の子どもたちが集まってくるのは、私にとっても励ましでした。その子どもたちに賛美歌を教え、皆が一緒に賛美歌を歌い、そしてそれがバラックも含めた近所に響き渡ったときの感動を忘れることはできません。 

 数年間そのような状況は続きましたが、その後、バラックの子供たちのご両親が若くして相次いでなくなり、住んでいたバラックも壊され、その子供たちは遠くに住む別の親族のもとへと引き取られていきました。残念ながらその後、学校に行くのも止めてしまったと噂で聞きました。もう今となっては出会うことは難しいのですが、神の導きの中で、その子たちの人生の一部分でも共に時間を過ごしたことは忘れられません。神の守りと祝福が続けてその子たちの人生の上にあるように祈らされます。

 

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