南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記35【2期】子供たちから教えられたこと

 聖書の中で、イエス・キリストはこのように言われています。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」(マタイ19章)
 B市での教会の働きの中で、現地の子どもたちに関わることも多かったのですが、子どもたちから教えられることも多くありました。

1.素直な目

 しい集会所にて、勉強クラブから集会所に集まるようになった近隣の子供たちは、日曜学校にもつながるようになりました。新しい集会所で始められた毎週の日曜学校は午前と午後の2回行われ、賛美と聖書からのお話、そして聖書イラストの塗り絵にゲームなどが主なプログラムでした。

 中でもA国の子供たちは塗り絵が大好きで、時間をかけてきれいに塗っていたのが印象的でした。家にも色鉛筆は無く、教会でしか塗り絵をすることができなかったのでしょう。男子中学生でさえも喜んで塗り絵をする光景は微笑ましくもありました。

 日本だと太陽は赤、また川は水色で塗る子供たちは多いかと思います。しかし、A国では太陽は黄色や白、また川は茶色だったりします。最初は驚きましたが、よく考えると現地の子供たちの視点で、見たままの色がその色であることに気づきました。逆に日本人として、「太陽は赤やオレンジ色、川は水色」という固定観念があることに気づきました。

 海外の現地で働きをする時に、日本で生まれ育ってきた中で知らず知らずのうちに身についてしまっている固定観念というものが、時に邪魔をすることがあります。私の場合、日本の教会で育ってきた中で、日本的な教会の価値観というものが染みついてしまっているのです。

 それが問題というのではなく、その恩恵も受けているのですが、特に異なる文化で働きをする宣教師は気を付けないと、聖書からというよりも自分自身が持っている文化的な価値観から物事の良し悪しを判断してしまうことがあります。そして聖書ではなく、自分自身の文化から来ている価値観を、現地の教会や現地のクリスチャンたちに押し付けてしまうこともあるのです。

 パウロが「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。」と言っているように、福音をその文化の中で伝えていくために、自分の持っている価値観を一度見直すことは大事かもしれません。

 この価値観は、聖書からなのか、それとも自分が育ってきた背景からなのかと自分に問う作業です。そのためには子供のような素直な目、素直な視点が必要なのだと思うのです。

2.受けるよりも与える方が

ジュース

 曜学校には、比較的に貧しい家から来る子どもたちが多かったのですが、彼らと一緒に現地の賛美歌を歌ったりするのは、恵みの時でした。また、子供たちの素直な思い、そして応答にはっとさせられることが何度もありました。

 日曜学校が始まって、何度も教えた聖書のことばがあります。それは「受けるより与える方が幸いである。」受けることの恵み、それだけでなく与えることの素晴らしさを知ってほしいという願いがありました。
 そのような中である日曜日に、いつも来ている一人の小学生が1本のジュースを持ってきました。「先生、これどうぞ!」「えっこれ先生にくれるの?」「そうです!」無邪気な笑顔で渡された1本のジュースは、私にとっても励ましとなるプレゼントでした。
 毎週の日曜学校では、集まる子供たちの誕生日をささやかなプレゼントと共にお祝いするようにしていました。というのも、集まる子供たちの中には、両親が既に病気などでなくなっていたり、また両親共に出稼ぎで隣国に行っていて、祖母に預けられた子供たちのもとに戻るのが年に2回だけだったり、他にも複雑な事情の中にある子たちも多かったからです。
 家族の中で誕生日をお祝いしてくれる人がいないのなら、せめて日曜学校で皆でお祝いしようと思っていました。皆で誕生日をお祝いされた子供たちの嬉しそうな顔を忘れることはありません。

 そして、逆に私の誕生日には、子供たち何人かで相談し合ったのか、それぞれが少ないであろうお小遣いを出し合い、また高校生の男の子はバイクでケーキのお店まで買いに行く連携プレーで、サプライズのお祝いをしてくれました。その気持ちがとても嬉しかったです。

 日曜学校の子供たちの「受け取るばかりでなく、与えようとする」姿勢を見て、教えられたことを実践することの大切さを改めて私も実感しました。

 

3.一粒の飴

 もう一つ忘れることのできない出来事がありました。教会の集会の中で、「ささげる」ということについても聖書から教えることがありました。しかし集まる子供たちの家の多くは貧しく、お小遣いも少ない子供も多い中で、自分のものをささげることについて教えても、理解することは難しいのではという思いが正直ありました。

 しかし後日、集会の中でささげものの袋を回して、袋が返ってきた時、袋の中を見て驚きました。そこには一粒の飴が入っていたのです。一瞬、いたずらかなとも思いました。しかしよく考えてみると、これはある子供のささげものなのではないか。

 その子どもにとって、手元にあるもので自分がささげられるものは、一粒の飴だったのかもしれません。その飴を自分で食べることもできたはず。でも、その子供はそれを教会に持ってきて、袋の中に入れたのでしょう。

 ささげるということ、また自分のものを誰かに与えるということは、どんなに小さな子供でも行うことができる愛のあらわれであることを改めて思いました。神様はそのような子供たちの小さな行為を喜ばれるお方であると信じます。

 一粒の飴。小さな子供たちの思い。それは私にとっても印象深く、励ましとなる出来事だったことを覚えています。

「受けるより与える方が幸いである。」

 

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