南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記29【2期】泥棒騒ぎ

 地方の街に引っ越してからというもの、今まであまり経験しなかったことに何度も遭遇しました。そのひとつは窃盗被害でした。外国人が比較的多い首都に比べて、少ない地方では、どうしても外国人の住んでいる家は目立ちます。泥棒にとって格好の的のようなものです。これに私たち家族は何度も悩まされました。

 A国で働く知人宣教師もかつてこのように言っていたことを思い出します。「教会はね、誰でも歓迎したい。だから私は教会の扉をいつもオープンに開けていたんだよ。誰でもいつでも入ってこれるようにね。そうしたら、泥棒がやってきてね。それからは、防犯と安全のために扉を閉めることになった。」

 働きのためには、なるべくオープンにしたい。近隣の多くの人たちに私たちの存在を知ってほしい。当初は自宅の一角を開放しての働きでしたから、そのように考えていました。しかし、見知らぬ人たちに知られれば知られるほど、家族は危険に会う可能性も高まります。理想と現実のはざまで考えさせられることも多くありました。

1.泥棒が盗んでいったもの

 A国では、ほとんどの家の窓には鉄格子がはめられていて、玄関の扉には南京錠を何個も使います。窃盗被害が多いからです。その中で、多くの泥棒は窓の外から物色します。深夜などに窓をこじ開け、長い棒などを使って鉄格子の隙間から部屋の中の物を盗むのです。

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 地方に引越した後、最初に泥棒被害にあった時は、私たちも初めてのことで無防備でした。窓の近くに電子機器などを置いたまま寝てしまい、朝起きると窓がこじ開けられて電子機器が消えていたということがあり、それからは窓の近くには決して大事な物を置かないようにしました。

 防犯対策のために、あらゆることをしました。A国では珍しかったセンサー付きの防犯ライトを外壁に取り付けたりもしました。これで一安心と思いきや、2回目に来た泥棒はその防犯ライトをそのまま盗って行きました。泥棒の方が一枚上手でした。

 働きの中で、何か特別なプログラムを準備している時などに限ってよく泥棒がやってきました。特別な集会を前に、祈りつつ気持ちを高めたい時に限って、泥棒により気持ちが折られました。そのような出来事が連続すると、自宅の前を通る人たちを皆、無意識のうちに警戒する目で見てしまっている自分がいて愕然としました。

 朝になると、昨晩には無かった泥で汚れた足跡が玄関前に残っていることが何度もありました。深夜に門を乗り越えた侵入者がいたのだと思うと、朝からどっと疲労感がやってきました。毎晩、心のどこかで今晩も泥棒が来るかもしれないと思う日々でした。妻や子供たちは少しの物音にも敏感になっていました。時々用事などで、他の地域に宿泊する時、ああ今晩は泥棒の心配をしなくて良いんだと家族でほっとしたことを覚えています。

 大家さんにも相談しましたが「気を付けてね」の一言だけでした。これは大家さんが悪いのではなく、A国では基本自分の身は自分で守らなくてはならないのです。もちろん大家さんも、侵入防止のための鉄網を増やすなどの対策をしてはくれましたが、侵入を試みるものに対しては限度があります。命が奪われるなど、よほどのことがなければ警察には届けようとはしない。もし警察に届けたら、もっと面倒なことになるからということでした。警察を信用していないこの国の現実を思いました。

 同じ街で外国人の家に泥棒が侵入したという話も何度も耳にしました。その外国人の場合は、家の中まで侵入されたとのことですが、あえて寝たふりをして起きなかったそうです。もし起きたら泥棒に撃たれるからと。同じような話はよく聞きます。泥棒が来ても、決して抵抗してはいけない。泥棒にはそのまま帰ってもらった方が良い。命の方が大事だからと。水面下ではいまだに多くの銃が出回っている事実があります。

2.神様の守り

 毎晩、寝る前に家族で祈りました。「神様、今晩は泥棒が来ませんように。家族を守ってください。」日本ではなかなか普段しない祈りですが、私たちにとっては真剣な祈りでした。

 ある乾季の夜でした。乾季は滅多に雨は降りません。しかし、その日の深夜3時ごろだったでしょうか、急な雨音に目が覚めました。夢うつつ、なぜ乾季にこんな強いスコールが降るのだろうかと思いながらも、また眠りに入りました。そして翌朝起きると、部屋の窓が外からこじ開けられているのを発見しました。「やられた」と一瞬思いました。しかし、その日に限って何も盗まれているものはないのです。不思議でした。

 昨晩の季節外れの大雨を思い出しました。おそらく泥棒は、窓をこじ開けて物色しようとした時に、突然予想外の大雨が降ってきたので驚いて断念したのではないかと。これは私の勝手な想像にすぎません。でも確かに神様の守りがその晩にはありました。私はその事実を見て神様に感謝するしかありませんでした。宣教地では、危険と隣り合わせということが何度もありました。しかし、その中で神様の守りと助けも豊かに実感することができたのです。

 

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