南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記19【1期】宣教と危険について

 A国に遣わされてしばらくした時のこと、A国と隣国との間で国境紛争から軍事衝突が起きました。今までの人生で味わったことのない「きな臭さ」のようなものを肌で感じました。

 隣家の幼い子供が「戦争が始まるの?」と親に聞く声が耳に入りました。その時の軍事衝突は短期間で終わりましたが、外国にいる以上、いつ何が起こるか分からない状況があります。A国でも多くの宣教師が様々な事件や事故に現実に巻き込まれ、天に召された宣教師も何人もいます。

 海外での宣教の働きと様々な危険というものは、切っても切り離せない関係にあることをいつも心に留めています。

 

1.現実にある危険

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 宣教地での危険にはいろいろな種類があります。洪水などの自然災害、また窃盗や強盗、テロ、誘拐などの犯罪、交通事故、風土病などの病気など、数多くの危険が存在します。それは全部ではありませんが、母国でもあり得ることです。海外だから特別ということではありません。

 しかし、海外では言葉の問題もあり、また緊急時に対応する方法が母国と異なることがあります。何かの時に頼ることができる人も限られます。犯罪に巻き込まれた場合は致命的になる可能性が大きく、そのような意味では母国とはまた違う緊張感を感じることがよくあります。

 A国に関しては、私たちが遣わされる以前からA国で働いていた宣教師は、私たちよりも多くの危険に遭遇していたと思います。ある知人宣教師は入国してすぐに大規模な軍事衝突が起こり、市街で銃弾が飛び交う中、一旦母国に退避せざるを得ませんでした。またある宣教師は暴漢によって銃で撃たれたこともありました。

 その頃に比べると、国自体の治安も段々と良くなってきており、私たちは今まで銃による直接的な被害に出会ったことはありません。しかし、今なおニュースで銃を使った犯罪を見聞きすることは普通にあることです。水面下で銃は出回っています。  

 第1期では毎週村集会に参加していましたが、村から家族が待つ自宅へ帰るのは夜遅くとなりました。集会に同行していた現地の牧師からは、自宅に帰宅したら必ず電話で無事を連絡をしてほしいと頼まれていました。

 なぜ、そこまで心配されるのか最初は不思議に思っていましたが、ある時、現地牧師との会話の中で、かつて強盗事件に巻き込まれた時のことを明かしてくださいました。

 ある夜、突然強盗が自宅に侵入してきて発砲されたこと。強盗が撃った銃の弾が腹部に命中したが、一命をとりとめたこと。あれは神様の守りでしたと、お腹の傷も見せてくださいました。その話を聞いて、いつも村集会の後、外国人である私が夜にバイクで一人帰宅することを心配してくださっていた思いが理解できたのです。

 昔に比べて改善しつつあるとはいえ、当時A国の夜間の治安はまだ安心できないところもありました。A国の教会も、安全面からかつては夜に集会は行われていなかったようです。私はA国に滞在中、余程の用事がない限り、夜間に外出することは基本しませんでした。ここは日本ではなく、いつ何があるか分からない海外であることを、そして日々の生活の中での神の守りをいつも覚えさせられていました。

 その他、病気や事件など、実際に私が宣教地で直面してきた様々な危険については、またいつか個別の機会に書きたいと思います。

 

2.どのように考え対処するか

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 宣教地での危険に関して、どのように考えて対処すべきか、少し実際的な話になりますが、私が現地で考えてきたことの中でのいくつかを書ける範囲で以下に記します。

 

①大切な情報収集

 海外で大事なのは、正しい情報をいかに把握しているかということです。今はネット時代ですので、ネットで常に最新の情報を得ることができますが、もし国が有事となれば、ネットや電話の回線は治安維持のために切断されることもありますので、いろんな情報網を確保しておくことは大切です。

 長く現地に住んでいると、肌や直感的に危険を察知できるようになることもあります。直感的に危ないと思ったことは、なるべく避けるようにしています。しかし、それ以上に私が大事にしているのは、現地の方々からのアドバイスです。特に現地牧師や現地伝道者のアドバイスに信頼を置いています。もし何かを相談して、現地の牧師や伝道者からそれはやめたほうが良いというアドバイスがあれば、私はしないようにしています。

 数年前に、A国の中で不穏な政治状況になったことがありました。私はその時は地方の街に働きのために住んでいましたが、首都にいるベテラン牧師から注意喚起のメールが送られてきました。首都は緊迫感が高まっているので、不測の事態に備えた方が良いとの内容でした。私はそのメールを当初あまり重要視していませんでした。というのも、当時住んでいた地方の街に流れている空気は、首都のような緊迫感が全くなく、どこか他所事のように感じられたからです。

 しかし、しばらくしてその牧師が懸念していたような事態が起き、私は大変驚いたことを覚えています。現地にいる人たちのアドバイスや意見を、決して軽く見るべきでないのです。そのことを思い知らされました。

 繰り返しますが、海外で正確な情報を把握しておくことは大切です。ネット上にもたくさんの情報がありますが、それを正しく見極めることができるように、上からの知恵も必要です。

 

②危険をある程度想定しておく

 危険には2種類あります。それは「想定できる危険」と「想定できない危険」です。想定できないハプニングのような危険があります。それに対しては神様に全てをおゆだねするしかありません。しかし、事前にある程度想定できる危険もあります。それに対しては注意と警戒をすることにによって、危険な目に会うのを防ぐというのは正しいことだと思います。それは病気にかからないように事前にワクチンを打つのと同じことです。この2種類の危険を切り分けて考えることは大切です。

 具体的には、先にも書きましたが、夜間はなるべく外出しないようにしたり、当たり前のようですが、外でも家の中でも貴重品などを見える所に置かないなど気を付けています。以前日本の教会から来て下さった一人の青年がスマホを持って風景を撮影していた時に、後ろから来たバイクに乗った男性にスマホをひったくられそうになったことがありました。幸い未遂に終わりましたが、ひやっとしたことを覚えています。

 一時帰国などでしばらく家を空ける時にも、隣近所には伝えないようにしてほしいと大家さんから言われたことがあります。あの家は留守だと噂が流れると、不在中に泥棒が入るリスクが高まるからです。

 また、宣教地にて教会近隣への伝道はなるべく一人で行かないようにしています。現地のクリスチャンと2人以上で行きます。イエス様も弟子を2人ずつペアにして遣わされました。それも様々な意味で良いことなのだと思います。

 以前ある宣教師から聞いた言葉は印象的でした。「私はいつも最悪のケースを想定しています」と。起こり得る最悪のケースを想定していると、様々なハプニングなどにも落ち着いて対応することができます。それもひとつの知恵でしょう。

 今だから書けますが、宣教の最初の時期は「万が一の場合の覚え書き」を作成して、母国にて預かってもらっていました。海外で私に何か万が一のことが起こった場合に、どのようにしてほしいかを書き留めたものです。また宣教団体の中には、宣教師が誘拐された時にどのように対応するかを想定している団体もあると聞いたことがあります。実際にそのようなケースも世界には起こっているからです。

 大げさのように思えるかもしれませんが、様々なリスクを想定して行動するのは決して悪いことではないと私は思っています。

 

③神を信頼する

 しかし、結局のところ宣教地で一番大事なのは、起こる出来事を全てご支配しておられる神様に信頼するということです。現地でいろいろな危険やハプニングはありますが、神様は必ず全てを益にしてくださると私は信じています。どんな時にも神の保護のもとにあるというのは、何にも変えられない安心感があります。

 

3.宣教地からの退避について

 

 海外では予想しなかった事態の悪化などによって、一時的な退避が必要になることもあります。私たちは今まで「有事」などによって退避を検討したことはないのですが、最近でもある国ではクーデターなど政情の悪化により、命の危険の中で帰国せざるを得なくなった宣教師もいます。

 もちろん退避するという選択もある一方で、退避せずに宣教地に残るという選択をする宣教師もいます。かつてA国でのクーデター騒ぎの時にも、退避した宣教師もいれば、最後まで残った宣教師もいました。それには宣教師一人一人の事情や考え、家族のこと、ポリシーの違いがあり、またその渦中にいる者にしか分からない状況と判断があり、一概にどうこうと言えるものではありません。

 パウロも時には籠に乗って危険から逃れなければならない時もありました(使徒9:25)。また暗殺の危険を避けて行動する必要もありました(使徒20:3)。しかし、時には目の前に危険があり、多くの人たちから警告されながらも、構わずに前進する時もありました(使徒21:12-13)。同様に神様がそれぞれの状況の中で、一人一人をみこころのままに導かれ、それぞれに確信を与えられるのだと思います。

 退避というのは何も政情不安定などによるものだけではありません。時には、精神的な疲労や家族の問題などで、場所を移ることも必要な時もあるかと思います。

 私の知るある宣教師は、A国の地方で開拓の働きをしていましたが、やむを得ない事情の中で、その場所を離れ、しばらく心身の回復をはかった上で、違う場所へと移っていきました。それは家族のためにも良い判断だったと私は思います。

 これは私個人の思いですが、時と場合によって宣教地からの「退避」もしくは「移動」はあり得る判断だと思っています。もちろん、派遣教会と宣教団体の理解もあってのことですが。導かれた場所を喜んで離れる人はいないでしょう。しかし、危険が迫っていたり、個別の事情の中でそのような重い決断をしなければならなかった何組もの宣教師をA国で今まで見てきましたし、自分も彼らと同じ状況であれば、同じ決断をするだろうとも思うのです。

 それぞれが祈りとそして葛藤の中でなされた「退避」という重い決断の背後には、神のお許しと、その時には分からない何かのご計画があると私は信じています。

 

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宣記18【1期】現地の賛美を通して

  A国の教会に出席を始める中で、現地の教会で歌われている賛美歌の多くが今まで聞いたことのないメロディであることに改めて気づきました。最初は独特なメロディのように感じ、なかなか慣れなかったのですが、次第に自分の中でも懐かしく思えるようなメロディへと変化していったことを思い出します。

1.昔から伝わるメロディ

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  A国の教会でよく使われている賛美歌ですが、主に2つの部分に分かれています。ひとつは日本の教会でも馴染みの深いメロディの賛美歌が多い部分で、主にアメリカなど西洋の教会で生まれ伝えられてきたものです。

 そしてもうひとつの部分は、A国に昔から伝わる伝統的な曲の歌詞を聖書的な歌詞に変えて賛美歌としたものです。礼拝や集会でもよくこれらの賛美歌を歌います。

 日本に昔からあるメロディを賛美歌に取り入れて使用することはあまりない日本の教会とは対照的な感じがします。最初、A国の教会で聞きなれないメロディを耳にした時は不思議な思いがしましたが、これにはいろいろな理由があることを知りました。

 かつての一時代に学校教育が廃止されたA国では、その後も学校や教師が不足し、教育に問題を抱えていました。他にも様々な理由の中で、特に年配の方々で文字を読むことができない方々が多くいます。

 教会の近隣に住む方々へトラクト(チラシ)を渡して教会の案内をすることがありますが、特に年配の方々に「私は文字が読めないから、チラシはいらない」とよく言われたことがありました。

 教会に来られている方の中にも、賛美歌の文字を見ながら歌うことが難しい方がおられます。ましてA国の人たちには馴染みがない西洋発祥のメロディの曲を歌詞を見ずに歌うのは簡単ではありません。

 しかし、もしその国に昔からある伝統的なメロディだとしたらどうでしょうか。西洋のメロディよりも抵抗なく心にすっと入ってきます。そして歌詞が読めなくても、幼い時から親しんできたメロデイが自然に耳から入って口ずさむことができます。

 賛美歌は歌詞が大切なのですが、A国の教会で使っている伝統的なメロディ賛美歌の歌詞は、聖書の大事な教えが要約されたものとなっています。ですから、聖書が読めなくても、耳から入ってきた歌詞を覚えることで、自然と聖書の大切な教えが頭に残るように工夫されているのです。

 最初は聞きなれない現地のメロディでしたが、そのうちに聞きなれてくると、とても美しいメロディであることに気がつきました。今では、賛美歌の歌詞をA国語から日本語に訳し直して、日本でもA国のメロディで賛美したいと個人的に思うほどです。

(下に動画を貼り付けていますので、ぜひ一度A国の賛美歌をお聞きください。)

 

youtu.be

 

2.音楽クラスを始めて

 第2期の話になりますが、A国の地方の街でミッションを始めた当初、近隣の子供たちが教会に集まってきました。日本の教会、また知人から、鍵盤ハーモニカ数台や楽器の寄贈がありましたので、音楽に関心がある子供たちを対象に、音楽クラスを始めることとしました。

 A国のほとんどの小学校には、音楽の授業がありません。ですから、音楽クラスに集まる子供たちには音符の読み方、ドレミ、そしてリズムなどを一から教えることになりました。

 目標は教会学校で特別演奏をすることとしました。何人かは練習を頑張って、弾くことができるようになったのは嬉しいことでした。鍵盤ハーモニカは、電気を使わなくても音が出るので、便利な楽器のひとつです。というのも、少し前までこの国では、特に地方にいくと電気がない場所もあり、電気が必要な楽器を使うことができなかったという事情もあります。

 地方の多くの教会では、楽器が無いため全員アカペラで歌ったり、クラシックギターを用いたりしています。またA国の伝統的な楽器を使っているところもあるように聞きます。

 所変われば、いろんな賛美の仕方があります。その国の人々が、その国の楽器を用いて、その国のメロディを通して、その国のスタイルで賛美する賛美。神様はそのような賛美を喜んで受け取ってくださることと思います。

 


鍵盤ハーモニカ特別演奏

 

3.楽器の習得を通して

 A国に行ってからというもの、いつか伴奏のためにクラッシックギターを弾けるようになりたいと長らく思っていましたが、一から練習を始めてマスターするというのは思いのほかハードルが高く、なかなか手が伸びませんでした。

 やがて地方の街で子供達対象の教会学校を始めた時に、子供たちに賛美歌の歌い方を教えましたが、伴奏する楽器がないと歌いずらいように思いました。そこで、ギターよりも弦が少ないウクレレであれば、練習はしやすいのではと考え、伴奏のために四十の手習い。一からウクレレを始めてみました。

 周りに弾き方を教えてくれる方も、また参考にする本なども無かったのですが、今は動画サイトにて自習できる映像がたくさんあり、そのような映像を見ながら練習を繰り返しました。今は海外でも場所を選ばずに学べる便利な時代です。

 次第にコードを弾けるようになり、教会学校の子供たちとウクレレを使って一緒に歌うことができるようにまでなったのは良い思い出です。

 宣教の働きのためには、やはり楽器は何かできた方が良いなと今さらながらに思わされています。

 


教会学校賛美

 

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宣記17【1期】村の集会に行きはじめて

 現地の言葉の勉強が1年続き、必要最低限のコミュニケーションは段々と取れるようになっていきました。当時出席していた教会では、毎週約40キロ離れた村に出かけていき集会をおこなっていましたので、その村集会に私も定期的に参加することにしました。

1.村集会へ

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 集会がおこなわれていた村へは、荷台を座席に改造したトラックで、現地伝道者の数人と一緒に通いました。しばらくして、当時4歳の長女も私と一緒に毎週その村へ同行することになりました。途中未舗装の道やガタガタ道もあり、走行中に何度も体が椅子の上で飛び跳ねたことを覚えています。

 当時集会を行っていた村には、電気や水道、ガスなども全くありませんでした。生活水は大きなかめに雨水を貯めて、飲み水は井戸から、料理は炭でしていました。電気は車用バッテリーを蛍光灯や扇風機、テレビなどにつなげていました。(近くの市場にはそのためにバッテリーの充電屋さんもあります。)

  街にあるような娯楽も何もない村で、教会の集会が村の子供たちの楽しみのひとつだったようです。私たちが乗ったトラックが村に入ると、道々に子供たちが待っていて、荷台に乗り込んできます。

 同行していた伝道者が言いました。「村の子供たちはみんな車が珍しいから、乗りたいんだよ。同じ教会で働いている○○先生はね、小さい頃、送迎の車に乗りたいから、教会に来ていたんだ。」幼い時に送迎車に乗ることが楽しみで教会に来ていたひとりの子供は、今や伝道者になっているのです。いろんなきっかけがあるものです。

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 村の空き地を臨時の集会場にして、伝道者が賛美を歌い始めると、それを聞きつけて、どんどんと子供たちが集まってきます。皆で大声で賛美し、そして聖書のお話の後にするゲームが何よりも楽しそうでした。

 夜7時からも集会を行いますが、村には電気がないので周りは真っ暗。持参したバッテリーに蛍光灯をつなげて、ぼんやりとした灯りの中での集会ですが、それにも関わらず、大勢の子供たちがやってきて、最初は驚きました。

 ある日、子供たちの数が少ない時がありました。伝道者によると、農繁期は親の農作業の手伝いで来られないとのこと。またある晩の集会もいつもより出席者が少ないことがあり、不思議に思って近隣を見て回ると、ある家のテレビに多くの子供たちが群がってみていました。まるで昭和の光景だなと思ったものです。

2.初めてのお話

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 やがて、この村の集まりで聖書のお話を毎週してもらえませんかという依頼がありました。子供たちにお話しをするのは、言葉の習得のためにも良い機会だと思いますよと。現地の伝道者たちの温かい配慮でした。というのも成人の方々は、例え私のような外国人が発音や単語を間違って話しをしたとしても、多くの場合遠慮から間違いを指摘してくれることは少ないものです。この外国人は間違った言葉を話しているけれど、多分本当はこういうことを言いたいのだろうなと忖度してくれるのです。そして、段々と外国人特有の間違いに耳が慣れてしまうのです。

 しかし、子供たちは全く遠慮がありません。もし間違ったことを言ったら、相手が誰であろうとも「それ違うよ」とはっきり言います。手厳しいのですが、子供たちは、語学を学ぶ時には良い教師のような存在です。


村集会にて

 初めて聖書のお話をする日、私はとても緊張していました。今まで習ってきたA国語を使っての初めての奉仕です。事前に祈りながら何回も練習を繰り返しました。

 そして当日の村にて、集まってきた子供たちを前に現地の伝道者が言いました。「今日は日本から来た先生がお話をします。初めてのお話だから、言葉がうまくなくてもみんな笑わないでね。」聞く子供たちもいつもと違い硬い表情です。そしていざ子供たちの前に立つと、緊張のピークに達し、頭の中は真っ白になりました。何を話したのか覚えていないぐらいで、話が終わった後もほっとする一方、うまく話せなかったと落ち込んだことを覚えています。

 それからも、この村での毎週の奉仕は3年間ほど続きました。これ以降、何度も何度も子供たちに聖書のお話しをしたのですが、村の子供たちが長く覚えてくれていた聖書のお話は、私が一番最初に話したストーリーだったのです。緊張のあまり、発音も悪く、文法も滅茶苦茶だった最初のお話でしたが、そのお話を長く覚えてくれていたというのは、私にとって印象深いことでした。

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 例え言葉はつたなかったとしても、聖書のことばが語られる時に、神様が聞く者の心の中に届けてくださる。そして心に植えてくださる。

 現地語を用いた一番最初の奉仕を通じて、一番大事なことを神様は教えてくださったと思います。このことは、それからの働き全般の中での私の大事なモットーとなりました。

 実は、私は昔から子供を前にしてお話をするのは苦手なことのひとつでした。子供たちに定期的に聖書の話をするのは、この時が初めての経験だったのです。でもこれは後から振り返ってみると必要な経験でした。この時から数年後に地方へ引っ越して新しく集まりを始めることになりますが、まず近隣の子供を対象とした集まりから始めることになりました。そしてそこで毎週子供たちに聖書のストーリーを話すことになったのです。この村集会で3年間に渡って毎週現地語で苦労しながらお話をした経験が後に生かされることとなりました。神様はいつも後のために必要な経験や物事を、前もって与えてくださるお方です。

 

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宣記16【1期】現地の教会に出席して

 渡航1年目は言葉を学びながら、首都にあるひとつの教会に出席を始めました。その教会はアメリカ人宣教師が1990年代の後半に始めた教会でした。最初はその教会のアメリカ人宣教師のアドバイスに従って、首都にある他のいくつかの教会を訪問して集会に出席し(事前にその教会の牧師の許可を頂いた上で)A国にある教会の様子を見て学ぶこととしました。
 宣教の最初にA国のいくつかの教会を訪問する機会が与えられたことは、それからの働きにとって良かったといえます。教会のスタイルにはそれぞれ違いがありますが、その国の教会ならではの共通点もあるからです。その共通点を最初に知ることができたのは有意義なことでした。かつての宣教視察の時にも色々と感じたことはありましたが、実際にA国での働きを始めて、A国の教会についてより見えてきたこともありました。

1.A国の教会に出席して

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 A国の教会はどの教会も朝が早いスケジュールであることが最初は驚きでした。日曜朝の8時から成人礼拝が始まる教会もあります。礼拝が終わるのは午前10時頃です。日本では今から礼拝が始まる時間に、全ての集会が終わって皆帰宅につくというのは、当初不思議な感じがしました。考えると、一年中真夏のA国では、昼前はかなり暑くなるため、涼しい早朝のうちに礼拝を行うのは理にかなっているとは思いました。

 子供や青年が教会に多いことも宣教視察の時から印象的なことでした。逆に言えば、壮年層はどの教会も少ない状況でした。かつて内戦の時代があったという現実もあり、この国の人口構成は、比較的に壮年層や高齢者は少なく、子供や青年層は多いという特徴があります。数年前ですが、人口の6割が30歳以下というデータを聞いたことがあります。今、日本の国は急速に少子高齢化が進んでいますが、全体的に青年が多いA国の教会の姿は日本から来た者として印象的でした。

 また教会に来て信仰をもったとしても、教会に定着しないことが多いということも実際によく目にしました。特に若い人たちは友人に誘われて教会に来ること自体にはあまり抵抗はないようで、その中で福音を聞き信仰をもつ人たちも多く起こされているようでした。A国の多くの教会では、信じる決心をするとすぐにバプテスマ式を行っていました。しかし残念ながら、そのように信仰をもちバプテスマも受けた人たちが教会に定着せずに離れてしまうケースがとても多いとのことでした。他の教会が魅力的に思えばすぐに移ってしまったり、教会に行くこと自体をやめてしまうことも頻繁にあるようでした。そして、このことは後に私自身が集まりを始める時にも、痛いほど経験することとになりました。

 宣教視察をテーマにした時にも同様のことを書きましたが、A国の多くの教会は、日本のような備品や機械はなく、週報もありません。ピアノや楽器もない教会は、アカペラで歌います。礼拝後の昼食もありません。ある教会はトタンの屋根だけで、壁もありません。スコールが降ると、トタンに打ち付ける激しい雨音で説教が聞きづらくなります。私が今まで慣れ親しんできたシステム化、組織化が進んでいる日本の教会と比べても、本当に「何もない」シンプルなスタイルの教会です。しかし、その中でも、現地のクリスチャンたちが教会に集まってきて、喜んで賛美をし、礼拝している姿に、何か礼拝の原点というものを感じることがありました。誤解しないで頂きたいのは、決してシステム化、組織化が悪いというわけではなく、人数が集まり教会を形成していくためにそれらは必要なことでしょう。しかし、いつの間にか見過されがちな原点のようなものを、改めてA国の教会で見た思いがしたのです。

 

2.ひとつの転換点

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 今までA国の教会を見続けてきた中で、A国の教会にとってひとつのターニングポイントがこの10数年間の中にあったように思っています。(これは客観的なデータに基づいてではなく、宣教地にあって肌で感じていることです。)それは政府からキリスト教会に対して活動の制限令が出された時で、私がA国に遣わされた2年後の出来事でした。

 他の宗教を公的に保護しているA国政府にとって、キリスト教会の国内での増加傾向は目にあまったようでした。それまでは比較的自由に教会が活動することが認められてきた中で、ある日突然政府から活動の制限がかけられたのですから、教会やクリスチャンが受けた衝撃は大きなものがありました。

 また、ある教会が一般向けに配布したトラクトの内容が、あまりに排他的であるとのことで、そのトラクトの配布を止めるように政府から圧力がかかったこともありました。それら一連の出来事を境目に、今まで享受してきた「信教の自由」というものが、決して当たり前ではないことを改めて思いました。

 そのような政府の強い姿勢は、国民の潜在意識にも大きな影響を与えたように感じています。政府が良くは思っていない宗教というレッテルがキリスト教会の上に貼られたこともあるのかもしれません。またその時期の著しい経済成長の中で、人々の心が内面的なものよりも、目に見える豊かさの方に奪われていったこともあるのかもしれません。

 私が現地の教会に出席を始めた頃は、特別の集会などを行った場合など、教会堂に入りきれないほどの多くの新来者が教会に足を向けていましたが、しばらくして起こったそれらの出来事を境にして、教会に新しく足を向ける人々が急に少なくなっていったように感じています。そして、その目に見えない潮流は今もなお続いているようにも思うのです。まるで戦後のリバイバル期から、今まで日本の教会が歩んできた歴史そのものをA国の教会にも見ているような気がしています。

 社会の中の大きな潮流や波というものは目には見えませんが、実際に存在して、人々の心に、また時には教会にも影響を与えることがあります。パウロがテモテに書き送った「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(Ⅱテモテ4:2)」の聖書のことばが心に迫ります。

 「時が良くても悪くても」クリスチャンに、そして教会に与えられている使命はA国でも日本でも変わらないのです。

 

3.日本の教会から遣わされた者として

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 現地の教会に出席を始めましたが、まだ言葉が流暢にできるわけでもありません。最初は賛美も説教も全然理解できず、教会に集う人たちと拙い現地語で話をするも、すぐ会話が続かなくなり、ただ出席しているだけで、何もできないということに思い悩む時がありました。

 そのような中である時、その教会のアメリカ人宣教師から話しかけられました。
この国の多くの教会が抱えている問題は何だと思いますか?

考えさせられる言葉でした。宣教師の話は続きます。

それは、ほとんどの教会は経済的にも自立が難しいということです。外国や宣教師からの支援に頼る状況が長く続いていて、なかなか自立できない。もう自立は難しいと、多くの宣教師はあきらめてしまっている。でもね…」

「あなたは日本の教会からこの国に遣わされてきていますよね。日本の多くの教会もかつて外国からの宣教師の働きによって始まったと聞いています。しかし日本の教会はいつまでも外国の教会に頼らなかったでしょう。日本人のクリスチャンたちで自立して、自分たちで教会を建て上げ、自分たちで教会を運営していますよね。そして、今や海外に宣教師を遣わしている。これは、この国の教会にとって目に見える良いモデルなのです。あなたの存在はこの教会にとって本当に感謝なのですよ。」

 その言葉を聞いて、心が熱くなる思いでした。私はまだ教会の中で何もできず、ただ出席することしかできていなかったのですが、それでも、日本人宣教師の存在そのものが、現地の教会で励ましのひとつになっているのだとしたら、どんなに感謝なことだろうか。そのアメリカ人宣教師の言葉は私にとって慰めでした。「doingではなくbeing」という言葉も聞いたことがありますが、自分が何をするから、何をしたからではなく、自分という存在そのものを神は用いられ、働かれることがあるのです。

 過去にデプテーションで教会を訪問した時に、ある先生から言われた一言がずっと心に残っていました。「神様はいろんな国の人をA国に遣わされている中で、あえて日本の教会から日本人であるあなたを遣わされるのだから、他国の人ではなく、日本人としてできることは必ずある。それを探しなさい。」

 以前にも宣教視察の時に感じた「日本人として遣わされる意義」について少し書く機会がありましたが、10年以上に渡って、いつもこの問いは自分の頭の中にありました。かつては被宣教国であった日本から遣わされた一人の日本人だからこそできることを探して、宣教地で行動しようと努めてきました。

 今までもそしてこれからも、A国への志が与えられ日本から遣わされていた一人として、神様が遣わされた理由を探っていければと思っています。

 

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宣記15【1期】異文化での生活の中で

 海外という異文化の中で新しく生活を始める時に、今まで経験しなかったようなことでストレスを受けることがあります。母国で生活している時には全く気にならなかった匂いや音、風習や文化の違い、また他人とコミュニケーションを取る方法の違いなど、それが些細なことであったとしても悩みの種になり得ます。逆に海外で生活することで新しい視野が広がることもあるように思います。何事もそうですが、マイナスの面もあればプラスの面もあるのです。

 住み始めた時は気が張っていて、あまり気に留めていなかったことが、時間が経つにつれて段々と苦痛になることもあります。その時期は、何事もマイナスの一面でしか見ることができない辛い時期です。それからまたしばらく期間を経て、プラスの面も見ることができるようになるまで、また以前(母国)と今(海外)の違いを、自分の中で受け入れ消化できるまでは「忍耐」の時かもしれません。これは長期間過ごした海外から帰国した時にも「逆カルチャーショック」としてあり得る話ですし、転居や転職など何かの環境の変化でも体験することかもしれません。

①最初ストレスに感じたこと

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 A国で生活を始め、住み慣れるまではいくつかのことでカルチャーショックを感じることがありました。全ては書ききれないのですが、その中のひとつは大音量でした。A国では、一般的に大音量の音楽や音などをあまり気にしていないように思います。結婚式や葬儀式は、家の前の道路などにテントを張って行いますが、スピーカーを使って大音量で音楽や読経を流します。

 家の近所で式典が行われる時は、大型スピーカーから鳴り響く音の振動が家中の窓ガラスを揺らし、家の中にいても、身体の中にまで響くのを感じるほどでした。しかもそれが2日3日と朝から晩まで続きます。周りに家が少ない地方の村などでは、大音量で流すことによって、式典が行われることを近隣に知らせる目的があったようですが、都市でさえも変わらずに大音量が流れるというのは、慣れていない者にとっては、つらいものがあります。教会の近くで何かの式が行われる時には、説教者の説教は式の大音量にかき消され、ほとんど聞こえなくなることもあります。これには何度も参りました。

 その一方で、ある教会は賛美や説教なども、大型スピーカーで大音量で流しています。日本なら確実に近隣から苦情が殺到するレベルです。以前、あるA国在住の外国人が、あまりに近所の教会の集会が大音量なので、苦情を入れたことがあると言われていましたが、こちらの国の人はあまり気にしていないようにも見えます。私はどうも気になって、集会でも音量は控え気味にするのですが…。

 

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 他にも、これは外国に住む以上、当然のことなのですが、いつも外国人として見られ外国人として扱われることにストレスを感じた時期もありました。例えばこの国では、外国人料金というものが普通に存在します。家の前に出すごみを収集車で収集する清掃会社に支払う値段(この国では有料)も、外国人料金として数倍のお金が取られることがありました。またごみ収集車がいつ来るか分からないため、自宅の前に予め出しておくごみ自体も、収集車が来る前にいつの間にか袋を破られて中身を荒らされることがあります。出すごみの中に、金目のものがないかをチェックして、取っていく人たちがいるのです。

 その後、袋を破られて荒らされた我が家のごみが路上に散乱することになります。そのまま路上に放置するわけにもいきませんので、自分たちが出したごみを自分の手で回収しなければなりません。これは大きなストレスでした。

 また私たちが外国人ということもあり、「支援すること」「与えること」に関しては多くのことを考えさせられ、悩むことがありました。A国には、富める者が貧しき者に施すのが当然という考えが根底にあります。施しという善行によって徳を積むという思想が背景にあります。テレビニュースを見ていても、いつも政治家や有力者は地方行脚の時に、多くの人々を集め、物資を貧しい人々に配ってまわります。皆、それを合掌して受け取り、それが当然のこととして放映されています。そのような文化の中で、外国人は富める者として見られ、外国人は困っている者を助けて当然であるという無言の雰囲気を感じることがあるのです。

 宣教の働きにあっては、みことばによる魂への支援を第一に行います(使徒3:6)が、現地にて本当に困っている方々を前にした時に、目に見える形での支援も必要と感じる時があります。その中で現地のクリスチャンに対しても含め、どのような形での支援をどこまですることが良いことなのか、その支援は本当の意味でその人を助けることにつながるのか。

 この10年以上に渡って現地でいろいろな現実を見せられ、また失敗も通して悩み考えさせられてきました。時に適切でない支援は、人と人の関係を建て上げるよりもむしろ逆の結果を招いてしまうことがあり、働きにも良くない影響をもたらすことがあります。

 この国で働いている宣教師とも、このことについて話をすることが何度かありました。宣教師それぞれにポリシーは異なり、それぞれの方法に知恵があることを思いました。ある宣教師の言葉は印象的でした。「助けすぎることに注意しなさい。」必要に応じて助けることは大事だが、必要以上に相手を助けすぎることは、自分も潰れてしまうし、相手にとっても良くないことだと。助けすぎることによって、逆に相手の信仰の自立を妨げることにつながってはならないのです。

 その中で、このことについては私なりの考えとポリシーをもって今まで行動してきました。そのポリシーが現地の実情の中で正しかったと言えるのかどうかは分かりませんが、宣教地にあっては自分のポリシーに従って行動することが大事であること、またそのポリシーは変化していくこともあると経験から学びました。

 私個人的にも以前と今とでは考え方や物事のとらえ方が異なることは多くあります。神を見上げ神に従うということに関しては、今までもこれからも一貫したいと願いますが、物事に対する考え方やそれに伴う行動が変化していくというのは決しておかしいことではありません。それは変化というよりもむしろアップデートしていくようなものです。

 何にしても、様々な現実を目の当たりにして、神からの知恵(ヤコブ1:5)が与えられるように祈らされるのです。

 

②海外ならではのこと

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 A国に住んでいて、外国人として見られ、特別に扱われることからのストレスもありましたが、逆に外国人として周りの目をあまり気にしないで生活できるという一面もあったように思います。

 長女が小学校低学年の時に日本に一時帰国をした際、音楽の授業で鍵盤ハーモニカが必要だったのですが、クラスの全員は一斉購入したため皆同じ色のものでした。その中で娘は自前のものを使ったため、娘だけ違う色の楽器だったことがありました。それを見た娘が「自分だけ違う色って良いよね。」と言った一言がとても印象に残っています。

 日本では、みんな同じでないといけないというような同調圧力を、子供の時から知らず知らずのうちに受けることが多いように思いますが、海外で外国人として育つとそのような雰囲気を経験することが少ないのかもしれません。(しかし、娘もしばらく学校に通うと、みんなと同じ色でないと嫌になったようです。)

 また、海外で母国とは違う価値観を体験できるというのは、子供にとって時につらいことでもあり、その半面で得られることもあるのかもしれません。かつて現地の牧師宅に当時幼かった娘と2人で招かれ、食卓に調理された蛇が出てきたことを思い出します。日本では蛇を食べるということは滅多に体験することはないと思いますが、A国にはA国の食文化があり、それは大切にされるべきものです。現地の方々と同じ物を食べるというのは、実は大きいことです。

 ある時、現地の牧師と一緒に食事をしていて、このように言われました。「先生は私たちと同じごはん(白米)を食べるのですね。」私は別に無理をして白米を食べていた訳ではなく、普段と変わらず食べていたのですが、現地の牧師からすれば外国人が自分たちと同じ物を食べているということが嬉しかったようです。現地の食事をおいしく食べることができるか、好きになれるかということは、海外で生活をしたり働きをするにあたって、おろそかにできないことだと思っています。

 蛇の話に戻りますが、当時幼かった娘は蛇を一口。そして「これおいしいね、何?」と私に聞いてきました。蛇と聞くと、「へえ、蛇っておいしいね。」大人が苦労する異文化の壁を、何も思わずに軽々と越えていく子供の適応力を思いました。

 異文化の中で家族で生活していくには、時にはカルチャーショックもあり、時にはストレスも大きく、つらい経験をすることもあり、決して簡単でない一面もありますが、異文化の中だからこそ体験できる一面もあるのだと知りました。

 最初にも書きましたが、物事には何事にも両面があるのです。最初の時期はどうしても片面しか見ることができないのですが、やがて両面を見ることができようになれば、より深く異文化生活を味わえるのだと思います。

 

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宣記14【1期】家族の合流

 2007年4月、長男の誕生を見届けて単身でA国に渡りました。それから数か月間単身生活をしていましたが、9月に一時帰国し、派遣教会にて正式に派遣式が行われた後、家族一緒の渡航、そしてA国での生活が始まりました。家族にとって初めての海外での生活でした。長女3才、長男0歳(5か月)での渡航でした。(下記に続く)

 

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 1.赤ちゃんのパスポートとビザ

 

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 現在は0歳でもパスポートが必要ですので、渡航前に当時0歳だった長男のパスポートを作りました。赤ちゃんのパスポートの写真はどう撮ればいいのかと思いながら写真屋さんに行ったところ、赤ちゃんをベッドに寝かせて、ベッド上からの撮影。なるほどと思ったことを思い出します。(ちなみに子供のパスポートは5年間有効のため、0歳の時に作ったパスポートの写真と息子が5歳の時の顔は、まるで別人のようでした。)

 海外に長期渡航するためには、渡航国のビザ(査証)が基本的には必要ですが、この当時のA国では、空港で費用を支払えば問題なく入国ビザを取得することができました。今までの歩みの中で、A国の入国時には何回かトラブルを経験しましたが、ビザ取得に関しては今まで大きな問題はなかったことを感謝します。(現在はコロナ禍によって、ビザ取得はどの国も以前より難しくなっています。)

 以前にも書きましたが、入国時もしくは滞在に必要なビザは、宣教師の頭痛の種のひとつです。特に宣教の自由がない国では、祈りつつ知恵を使いながらビザを取得しなければなりません。そのような国では、普段は農業や工業などの技術的な支援をしながら福音を伝える「技術宣教師」が働きをしています。病気の治療をしながら福音を伝える「医療宣教師」や、ある国では英語学校を始めて、生徒に英語を教えながら、地道に宣教の働きをする宣教師もいます。NPOの活動をしながら宣教する宣教師もいます。ビザの問題という背景もありますが、人々の生活に密着しながら、生活の場で証しをしていくそのような宣教師だからこそできる働きもあるのです。将来の様々な可能性のために、若い時に様々な分野を学び、技術を身につけておくことは、いろんな意味で決して無駄にはならないと思っています。

 例え宣教のために必要なビザを取得した上で働きを続けていても、国によっては、ある日突然ビザが取り消され出国が命じられる時があります。知人宣教師の中には、突然3日以内に国を退去するように求められたケースもあったと聞きます。中には、外出中自宅に戻ることが許されずにそのまま国外退去を求められた話も聞いたことがあります。

 ビザを取得していても一安心ではないのです。海外では何が起こるのか分からないのが常であり、ビザの取得や延長の条件が急に変わるのも常です。いつ内乱や紛争が起こるかも分かりません。もしその国の永住権を取得していれば、また話は異なるかもしれませんが、その国にとって外国人である限りは、その国の主権のもとで、いつ退去させられることがあったとしても文句は言えない立場なのです。

 そのような意味では、外国人はその国に在住することが許されている身といえます。日々神の許しと守りの中で、海外での生活と働きができているともいえます。そして、クリスチャンにとって再臨への備えはいつも必要であるのと同様に、宣教師にとっては、いつビザが延長不可になるかもしれない、いつその国での働きに一区切りの日が来るかもしれないという心づもりがどこかで求められるのかもしれません。まさに寄留者。宣教地での一日一日が大切だといえます。

 宣教の働きとは、日々の生活から必要面、健康面や安全面、その国でのビザに至るまで、徹頭徹尾、神への信頼が求められる働きであることを改めて思わされます。

 

 2.家族での渡航

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 赤ちゃん連れで国際線の飛行機に乗る場合、赤ちゃん用の機内ベッドを組み立ててくれます。(事前申し込み要)。これは長時間のフライトの中でとても助かりました。飛行機の中は気圧の変化による耳の痛みもあったり、長時間自由に動けないこともあり、特に幼い子供にとっては苦痛でしょう。この後も、何度も日本とA国を飛行機で往復しましたが、子供達がまだ幼かった時は、おそらくストレスから機内で時々泣き止まない時もありました。特に深夜便では多くの乗客が寝静まっていることもあり、泣き声が機内に響き渡ることもあり、子も大変だったでしょうが、親も気を使うことがよくありました。

 当時日本からの直行便がなかったA国では、第3国での乗り換えが必要でしたが、中継地の空港で機内のストレスから少しの間解放されるのは、子供達にとっても良かったかもしれません。

 神の守りの中でA国に無事に着き、半年間一人暮らししていた家に家族で一緒に向かいました。家族にとって初めての海外での生活が始まりましたが、特に幼い子供がA国での生活をすっと受け入れてくれたことは嬉しいことでした。大人は周りの環境に適応するのに時間がかかるのですが、子供の適応力の大きさを改めて思いました。

 家族が合流したことを、A国の人たちも喜んでくれました。特にA国の人たちは赤ちゃんが大好きで、外国人の子供は特に珍しかったのかもしれません。どこに行っても触られまくりました。他人の赤ちゃんでも、触りまくり、ほっぺをつねるというのも普通なのです。またよく抱っこをさせてくれと頼まれました。お店では、従業員がまだ赤ちゃんだった息子を抱っこして、いつの間にか悪気なく奥に連れて行くのでハラハラしたこともよくありました。国が違えば、かわいさに対する表現も異なるのです。

 

3.到着早々の体調不良

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 急な環境の変化は、体調を崩しやすく病気をしやすいと言いますが、A国に着いて早々、家族全員が原因不明の体調不良になりました。今から思えば何かの感染症だったと思います。今ならすぐに病院に行って治療を受けると思いますが、その当時はまだA国に行ってばかりで言葉もろくにできず、また信頼できる病院がどこにあるか分からなかったので、病院に行くことができませんでした。
 
 自宅での療養が数日間続きました。脱水症状の中で、3才の娘の唇の色が紫色に変わってきた時にはさすがにあわてました。そのような中で、最終的に神様が守ってくださったことは感謝でした。家族にとっては外国で生活する中での最初の試練でしたが、これを家族みなで祈りながら乗り越えることができたことは、その後の海外での生活のためにも良かったと思っています。
 
 今までの個人的な経験ですが、A国にて家族で生活を始める時も、またその後に働きのため地方に移住した時も、最初の時期に何かの試練が与えられてきたように思います。まず最初の時期に試練が与えられ、それを神様の助けによって乗りきった経験や体験は、その後のための大きな助けにもなりました。
 
 パウロはⅡコリント1:10で「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」と書いています。パウロは死の危険の中で、神様が確かに守ってくださったという経験や体験がありました。その上で、これから将来も神様は確実に守ってくださるという確信をもてたのだと思います。そのような生きた経験は、私達の確信を強めてくれます。
 

 10年以上に及んだ海外での生活の中で、家族が大きな病気や危険から守られたことは感謝なことでした。もちろん普通に病気はしましたし、怪我をすることもありました。次女も一度幼い時に呼吸器系の症状で入院することもありましたが、いつも神様の備えと守りが確かにありました。神様はいつもどんな時にも必ず支えてくださると信じていましたし、実際神は守ってくださったのです。

宣記13【1期】家族での渡航の準備

前回「言葉の学び」はこちらから▼

 

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 2007年春に単身でA国に渡り、言語を学習しつつ、生活する基盤を整えた上で、家族を迎えるため秋に一旦帰国しました。今回は、家族で海外に渡航するための準備などについて、一般的な話が主になりますが、思い出しながら書きます。

1.荷物の準備

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 多くの航空会社では、エコノミーチケットで、1人7キロまでの手荷物を機内持ち込みすることができ、1人20キロまでの荷物を無料で預けることができます。(航空会社また渡航地などによっては重量も変わり、また個数制限もあります。また格安航空会社では預け荷物にも料金が設定されています。)

 私達が家族5人で渡航する場合、100キロまでの荷物を空港カウンターで預けることが多くの場合できました。今もそうですが、出発前には現地に運びたいものを全部段ボール箱に入れて、体重計を使って制限ぎりぎりまで重さをはかります。

 それをまとめて出発時に空港カウンターに持っていくのですが、5人で計100キロの荷物となると、大きな段ボール箱が数箱になり、まるでちょっとした引っ越しのようになります。カウンターの列に並んでいても他の乗客の荷物に比べてかなり目立ったことを覚えています。

 今まで日本出発時に出発カウンターで預けた荷物は数多くありますが、乗り継ぎ地を経て、問題なくA国まで無事に届いたことは感謝でした。預けた荷物が目的地に届かなかった、また途中で紛失したという話も知人の宣教師からはよく聞きます。1回だけA国到着時に届かなかったこと(ロストバゲージ)がありましたが、夕方には別便でA国に届きましたので、荷物の紛失で悩むことはありませんでした。

 日本の調味料などは、重さ制限に余裕がある限り持っていくようにしました。当時、現地の店で日本の調味料は日本の数倍の値段がするほど高価なものでした。醤油などの液体は重いのですが、海苔やふりかけなどは軽く嵩張らないので、持っていく時に重宝しました。

 運ぶ荷物の中で一番重いのは、実は書籍です。宣教地での働きのために、なるべく多くの書籍を持っていきたかったのですが、その重さゆえに、選んで持って行かざるを得ませんでした。やがて電子書籍の時代に入り、重い本を海外に直接持っていくことから解放されたことは大変助かりました。

 また子供の勉強に関連する本なども同様に重いのですが、特に日本語に関する本は現地では手に入らないので、優先して日本から持っていくようにしました。子供が幼い時の読み聞かせの絵本などは、現地に住んでおられた日本人から何冊も頂いたりし、大変助かりました。本の読み聞かせは、幼い子供の海外における日本語習得のために、とても大事だと聞いていますし、私達もそう思います。

 日本の薬もいくつか持っていきました。日本では医者の処方せんが無ければ入手できないような強い薬も、現地では普通に薬局で売られていますので、時々、病や怪我の症状をネットで調べ、薬の成分を書いた紙を現地の薬局に行って買うこともありました。これは何があっても自己責任です。かぜ薬や胃薬などは日本の飲みなれたものを持って行くようにしました。日本で普通に売られている虫刺されの薬も、意外に現地には無く、日本の薬が重宝しました。

 しかし、結局のところ、現地で長く住むためにはいかに現地で売られているものを使うかという視点が大事かと思います。日本から持って行けるものには限りがあります。全く同じでないにしても、何か代用できるものを現地で探していかなくてはなりません。感謝なことに、A国では子供のオムツから電化製品まで、様々なものが現地の店で売られていました。実際電化製品などは、日本とA国とでは電圧が違うので、現地で売られているものを購入した方が良いのです。また調味料にしても、入手しにくい日本のものよりも入手しやすい現地のものを使う時に、新たな味付けを発見することもあります。

 海外での生活は母国の生活のようにはいきません。「郷に入っては郷に」という言葉もありますが、現地で売られているものを使う中で、実は日本のものよりも使いやすかったという経験は多くあるのです。

 

2.チケットの準備

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 たちがA国に遣わされた2007年ごろからLCC(格安航空会社)の全盛期に入り、その影響もあって、航空券の価格はどんどんと下がっていきました。日本とA国の往復航空券で1人3万円未満の時もありました。日本国内の空港までの移動費の方が高いのではと思ったほどです。アメリカ人宣教師の知人は、家族でA国とアメリカを往復するのに、多額の費用を要すると話していましたので、同じアジア圏内での移動という点では、恵まれていたと思います。昔よりも海外との距離がいろんな意味で近くなった時代でした。

 当時私が所属していた宣教団体では、かつて4年間の宣教地での働きをひとつの区切りとし、その後1年間の帰国と定めていたように記憶しています。昔、飛行機での渡航がまだ難しく、船で海外へ渡航していた時代は、本国と宣教地との往復だけで数か月を要したこともありました。そのような時代では頻繁な国境を越える行き来というのは大変で、4年間に1年間という区切りがあったように思います。しかし、世界の行き来はこの数十年間、比較的にスムーズになりました。私の知人のフィリピン人宣教師も、A国とフィリピンを数か月単位で行き来しての働きをしていました。そのような時代には、そのような時代に合わせた宣教の方法があるのでしょう。

  しかし、2020年に突然やってきた新型コロナウイルスの感染拡大により、今までのそのような状況は大きく変化してしまいました。かつて一世を風靡した格安航空会社は経営が厳しくなり、航空券の価格も上昇傾向です。またかつてのような国境を越えやすい時代に戻ることがあるのかどうかは分かりません。しかし状況はどうであれ、また国内外を問わず、一人一人のクリスチャンへの宣教に対する神の呼びかけは、海外に行きやすい時代も、また行きにくい時代も、制限があったとしても、またなかったとしても、いつの時代も変わらないことを思います。

 

3.予防接種などの準備

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 渡航にいくつかの予防接種を受けました。短期渡航ではあまり必要がなくても、長期渡航の場合はリスクも増えるため、破傷風、肝炎、日本脳炎などいくつかの接種が勧められています。(行く国によって予防接種の内容も異なります。)これも大切な準備のひとつかと思います。

 出発前、一日のうちに左手に2本、右手に1本。口から1つの液体ワクチン。合わせて4つのワクチン接種を同時に受けました。体の中をいくつかのワクチンが駆け巡っている感じがしました。他にも受けていた方が良い予防接種はいくつかあったのですが、日本で全部を受けることは難しく、必要に応じて現地で受けることになります。

 現地で働く知人の宣教師で、腸チフスにかかった方もいます。現地には日本にはない多くの病があります。事前に予防接種を受けていたら、感染しないか、感染しても軽症ですむ病もありますので、感染防止としての接種を受けることは大事なことだと考えます。

 現地でよく流行するデング熱に関しては、まだ効果的なワクチンはありません。対処療法のみです。デング熱はA国では人口の多い街で多発し、マラリヤは田舎に多いと聞きます。多くの知人宣教師また家族が現地で蚊によるデング熱に感染しています。A国ではデング熱は子どもがよくかかり、成人はあまり発症しません。幼い時にかかるため免疫ができるのでしょう。私達が教会で関わっていた子供達も何回か感染し、何度も祈らされました。外国人はデング熱の免疫がないため、成人でもかかりやすいリスクがあります。デング熱自体は、1週間ほど高熱に苦しんだ後に治ると聞きますが、もしデング出血熱という病にかかると命の危険があります。私たちは10年以上現地で住む中で、まだはっきりと分かる形でデング熱に感染したことはないのですが、いつ感染してもおかしくない病ですので、外出時に蚊よけ薬は必ず使用しています。

 ある地方の宣教師を訪問した時のことです。その宣教師の家は、かなりローカルな場所にあるのですが、虫よけ薬を塗っているかと聞かれ、その時はたまたま塗っておらず、塗っていないと答えると真剣な顔で注意されたことがあります。聞くと、その宣教師は子供さんも含め、デング熱にかかったことがあり、大変な思いをされたとのことでした。

 どんなに注意をしていてもかかる病気はあります。しかし、虫よけを塗るなどの行為やワクチンなどによって防げる病気もあります。もし外国で病気にかかれば、言葉の面で意思疎通の難しさもありますし、回復まで多くの時間を要します。防げる病に関しては、ワクチンなどによって防ぐということは良いことだと思います。しかし、最終的に信頼しているのはワクチンではなく神様です。いつも現地で家族が病気から守られるように、健康が支えられるように神様におゆだねし、祈る日々です。