南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記12【1期】言葉の学び

 A国に4月に到着してまもなく、語学学校にて言葉の学びを始めました。どの国の言語学習も同じかと思いますが、新しく学ぶA国語の学習は、私にとって日々苦労の連続でした。

1.驚かれる日本人

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 A国で言葉を学ぶためには、いろんな学校がありますが、私が入った学校のクラスには、全部で15人ほどいました。西洋人はわずか、そしてほとんどは韓国人。それも宣教師でした。クラスの最初にそれぞれの自己紹介の時間がありましたので、私は日本人ですと言い、そして宣教師としてA国に来ていますと付け加えると、それを聞いていた多くの韓国人の宣教師たちが大変驚いた様子でした。

 クラスが終わるなり、数名が私のもとにきて口々に言います。「あなたは、日本からの宣教師なのですか?」「日本は教会が少ないと聞いていましたが…。私、本当は日本に宣教に行きたかったのですが、門が開かれずにA国に来たのです。」「すみません、私と一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?」
 A国で初めて出会う日本人の宣教師は、彼らにとってまるで珍しい存在のようでした。後に韓国人の宣教師たちと親しくなり、多くのことを知りました。

 韓国は国内に教会が多いので、国内で教会を新しく開拓するよりも海外に目を向けていること。そして当時、A国には多くの宣教師が韓国から遣わされてきていたこと。

 特に私が個人的に親しくなった宣教師は、壮年世代になって韓国からA国に遣わされていました。子供が独立した後に、宣教師となって外国に渡ってきているのです。時間をかけながら勉強されている様子が印象的でした。

 「言葉の勉強は難しいですね」といつもその方は言っていました。「私は英語もあまり話せないし、A国語もまだまだだし、それにA国語をずっと勉強していたら、母国語もスムーズに話せなくなるし、いったい私は何人なのかと思いますよ(笑)」

 必死に語学を習得しようと努めている彼らの姿を見て、私も励まされる思いでした。

 

 2.苦労する発音


現地語クラス

 A国語の勉強を始めてみて、すぐに壁にぶつかりました。それはA国語の発音のあまりの多さにでした。音が比較的に少ないと言われている日本語を母語とする日本人にとって、発音の多い言葉を勉強するのは簡単ではありません。

 今までの人生の中で、口から一度も出したことのない音を出さないといけないのです。まず音に慣れなければ、微妙な音の違いが聞き取れません。日本語では「う」としか表現できない言葉でも、唇の形を変えながら出す、いくつもの「う」があります。日本語では「か」としか表現できない言葉でも、息を出す「か」と息を出さない「か」があります。

 文字習得に関しては、ひらがなやカタカナ、漢字というかなりの文字を使いこなす日本人にとっては有利かもしれません。しかし、発音だけはかなり苦戦しました。

 ある宣教師に言われたことを思い出します。「A国語は1に発音、2に発音、3と4がなくて5に発音です。」また他の宣教師からもこのように言われました。「発音は最初が肝心です。最初に変な癖がつくと、後から修正するのは至難の業です。」

 ある時、市場でお手洗いに行きたくなり、近くの人に「トイレはどこですか?」と現地語で聞きました。その人は私の顔をじっと見て言いました。「ごめんなさい。私、外国語が分からないのよ。」いや、自分は現地語で話しかけているのだけど…。内心がっかりした思いでした。発音が悪くて相手に伝わらないというつらい体験はこの後も何度も経験しました。

 自分がどんなに頑張ってもなかなか習得できない発音を、軽々と習得するクラスメートたちを横目で見ながら、どれほど羨ましく思ったか。語学の賜物は本当にあるのだなと、他人を見てよく思いました。ある本にこのようなことが書いてあったのを思い出します。「外国語を学ぶ時は、たくさん話して、たくさん笑われなさい。変なプライドは捨てなさい。」

 変な発音で笑われる経験というものは、できればしたくないものです。「あなたは発音が悪い。何を言っているのか分からない。」と目の前ではっきり言われるのは正直つらいものです。でもそれが怖くて人前で話さなくなると悪循環です。だから笑われることを怖がらない。そして、逆に失敗した自分自身を良い意味で笑えることが大事かと思っています。

 もしも宣教師同士がひとところに集まったら、外国語の失敗の体験談だけで大変盛り上がることがよくあります。結局、どの宣教師も皆同じ経験をしてきているのです。失敗しても落ち込まずに、そしてあきらめずに前に進むことが大切だと思います。

 私はA国語の習得を始めてもう10年以上経ちますが、正直今でも発音には苦労する時があり、笑われることもあります。もちろん帰国した今でもなお上達を心掛けていますし、語学の習得には終わりはありません。

 しかし、いつも忘れずにいたことは、私は言葉を学ぶことが目的でA国で働きをしたのではないということです。宣教師として、福音とみことばを伝えることが私の目的であり使命なのであって、そのための手段のひとつが語学です。このことを混同しないように気をつけました。

 言葉はコミュニケーションのための道具のひとつであって、言語力とコミュニケーション力はまた異なるようにも感じています。言語という良い道具をいつも手にすることができるように、日々磨きますが、道具は使うためにあるものですから、良い道具を手にして満足して終わりではありません。もし言語という手持ちの道具が十分に使えない時があれば、他の違う道具を考えて使うようにしています。

3.現地語を学ぶ意味とは

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 A国で働く世界各国からの宣教師の中には、長年働いている宣教師の中でも、あえてA国語を学ばずに英語のみで働きをする宣教師もいます。その場合、説教をする時は通訳をつけます。A国には英語に関心がある若い人たちも多く、外国人宣教師と英語でコミュニケーションを取るのは、魅力があるようです。現地語を習得するためには、どうしても年単位での時間がかかります。働きの内容にもよりますが、あえて現地語を学ばすに、英語のみですぐに宣教の働きを始めるというのは、一つの方法だとも思います。その中で働きを続けている宣教師を何人も知っています。

 ただ、現地語が分かれば分かるほど、より働きの幅が広がるということを身をもって体験してきました。外国人と英語で話す時は身構えていた方々が、現地語を話せるとなるとホッとした表情で、本音を語ってくることもよくあります。受け入れが全く違うのです。かつて日本で長年働いておられるアメリカ人宣教師と話した時にこのように言われました。

「現地語を学んだら、よりその人の心の深いところに入っていけます。」

 その言葉を今でも思い出します。現地語を学び、現地語を話すということを通して、その国の人と同じ土俵に立てるということです。その国の人々の思考や考え方というものが、その国の言語を通しておぼろげに見えてきます。言葉と文化は切り離せないからです。パウロも様々な場所で働きができたのは、いくつかの言語を話すことができたからではないかと思います。

 言語学習には多くの時間もかかり、また苦労しなければなりません。習得のためには、数多くの失敗もあり、時に赤面するような恥ずかしい思いもしなければなりません。何年経っても言語を通して、失敗することは多いのです。しかし、そうして犠牲を払いながら習得した言語を、神様は働きの中で必ず用いてくださると信じています。

宣記11【1期】単身での出発

前回はこちらから▼   

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  2007年に入り、様々な渡航準備も整い、1年半に渡ったデピュテーションも終わりを迎え、ようやくA国への出発が見込めるようになりました。長男が生まれる時期とも重なりましたので、最初の数か月は私が単身でA国に渡り、海外での生活と働きの基盤を整えた上で家族を迎えることにしました。
(今までの【序】章を終えて、ここからは【1期】の章として話を進めていきます。)

 

1.出発の時

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 地の教会訪問のスケジュールもほぼ終わり、A国への出発を控えた2007年の2月に派遣教会で按手式が行われました。厳かな雰囲気の中での諮問および按手は、これから伝道者として遣わされること、そして与えられた使命の重みを今一度感じさせられる時でした。

 その後、実際に渡航する手続きと準備に入りました。必要な予防接種、また免許センターで国際運転免許証の取得、今まで住んでいた住まいの退去、国外転出届の役所への提出など。今までのような短期の滞在ではなく、海外に実際に住むということが初めての中で、色々と手探りの中での手続きでした。

 その当時A国に入国するためのビザは、到着時に空港内で取得し、入国後に延長の手続きをすれば良いとのことでしたので、ビザに関しては問題はありませんでした。当時A国は外国人にとって入りやすい国のひとつでした。(多くの宣教師は、遣わされる国の入国ビザを取得するために、大変な苦労があると聞いています。現在の世界情勢の中で、最近はどの国もビザ取得および延長に関しては厳格化の流れにあります。その後、A国もビザ取得の方法は変更されています。)

 様々なことの中で、4月に渡航することが決まりました。出産のために実家に戻っていた妻の出産と長男の誕生を見届けて、4月10日に九州の国際空港から日本を発ち、第3国を経由してA国に入国しました。

 

2.単身での渡航

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 外で働きをする場合、まず住むための家を探さなくてはなりません。また、生活していくための様々な道具や器具などが必要ですが、母国から生活用品や荷物などを遠く離れた国に持って行くのは大変なことです。国際輸送会社にお願いし、コンテナなどを用いて一気に家財道具を母国から運ぶ人も多いと聞きます。
 
 同じ国の中だとしても、引っ越しなどによって住む地域や場所、また生活環境が大きく変わることはストレスにつながります。まして海外に移住する場合、特に家族、子供達のことを考えるならば、母国で使い慣れている家財道具などをそのまま外国に持っていくことがよりベターと考える人もいますし、その心情はよく理解できます。ただ、それには費用も時間もかかってしまいます。母国から何を持っていくかの取捨選択は、特に家族で渡航する場合は結構大事なことです。
 
 私達は結婚した当初から、海外での働きが念頭にありましたので、あまり家財道具などを持っていませんでした。A国で生活するために必要なものは、日本から持っていかず、A国で揃えようと思っていました。
 

 その中で、あることを通して、A国で長年働きをされてきた宣教師家族と知り合いました。私が4月にA国に単身渡航して生活と働きを始めることをお伝えすると、ちょうどその先生ご家族がA国での働きを終え、母国に帰国されるタイミングが同じ4月ということが分かり、先生ご家族が住んでおられた住まいに、私がそのまま入居し、使っておられた電化製品なども含め家財道具一式をそのまま譲って頂けることになりました。

 この話、帰国される宣教師には喜ばれ、また私にとっても、A国に入国した時から、生活に必要なものが既に備えられている状況で、これ以上ない感謝なことでした。外国で言葉も全く分からない中で、住む家を探して借り、一から生活基盤を整えていくのは大変な労力かと思います。「主の山には備えがある」という聖書のことばを思い返しました。今思い返しても、神様の不思議な備えには感謝しかありません。

 

3.単身での生活

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 速、海外での単身生活が始まりました。最初は、毎日刺激が多い日々でした。しばらく食事は外食でしたが、近所の食堂でメニューを見ても現地の言葉は分からず、何が書かれているか見当もつきません。

 最初の頃はメニューを指差しして適当なものを注文し、運ばれてきてはじめて自分が注文した料理を知りました。しかも一人では食べきれない量だったりと、なかなか思うように注文できず苦戦しました。次第に、食材を買って自炊することが増えましたが、かつて就職して一人暮らしをした経験が、後に海外で生かされる日がくるとは夢にも思いませんでした。

 しばらくして、A国の言語を学ぶための語学学校に行き始めました。言葉が全く分からない最初のうちは、学校の先生ともコミュニケーションが十分に取れず、苦労しました。「あの日本人はいったい何を言っているのか分からない」と先生同士の冗談が耳に入り、落ち込むこともありました。

 現地の教会の集会に行っても、メッセージも何も分からず、賛美も歌えず、教会の人とも全くコミュニケーションが取れず、今思い返してもこの時は本当につらかったです。宣教師として来ているのに、現地の教会に行くことを苦痛に思っていることに、愕然としました。その状況をなかなか受け入れられずにいました。

 そのうち、毎朝が憂うつになり、夕方近くになると気が晴れてくることの繰り返しでした。このパターンを何とか乗り越えたいと思いましたが、なかなかきっかけが見つかりませんでした。

 日本にいる妻子と、毎晩ネットを使って話をするのが、唯一リラックスする時でした。かつての時代の宣教師は、国際電話の費用が高いため、日本に電話をかけるときには、事前に話すことを箇条書きにまとめ、短い時間で要件のみ手短に話したと聞いたことがあります。その時に比べて、2007年にはまだ今のようなスマートフォンはありませんでしたが、パソコンを通じて会話をすることはできました。費用も安価で技術の進歩にはとても助けられました。

 また、このような時に、ある宣教師の方とお話できたのは幸いでした。

「1年目は何もできなくてしんどいでしょう。言葉もできずに、一体何をするために自分はこの国に来ているんだろうと思うでしょう。」

 まさにその時、自分の思い悩んでいたことを口にされ、目が潤みました。そしてそれは、自分だけでなく、多くの宣教師が通る道だと。決して無理をせずに、できることをしていったら良いとのアドバイスを受け止めました。

 そして、1日に何か1つでも新しいことをしようと「小さなチャレンジ」を心掛けました。私書箱の手続きをしたり、電話の手続きをしたり、ローカルの市場に買い物に行ったり。決して多くのことではなく、無理をせずに、何か1つでもその日のうちにできたら、それで良くやったと自分自身に言い聞かせました。結果的にしんどくて何もできなくても、自分を責めることはしないようにしました。そのようにしながら、少しづつですが、神様の助けの中で前に進んでいくことができたことを思い出します。

 後になって、外国に住むなど新しい文化に入る時に、適応していく段階で多くの人は同じパターンを経験することを本などで知りました。

 ①ハネムーン期…新しい環境で毎日刺激を受ける

 ②ショック期…様々な違いの中で失望が増える

 ③適応開始期…徐々に文化の違いに慣れる

 ④適応期…文化の違いを理解し、違いに寛容になれる

 以上のように表現されていましたが、まさにこの時の私の経験した状況は①と②だったのだと思います。今から振り返れば、そういう時期もあったよねと思えるのですが、渡航したばかりで、様々なことが狭い視野でしか見えなかったその時は、自分にとってつらい時期でした。その中でも、「耐えられない試練にあわせることはなさいません」という聖書のことば。そして狭い視野に陥っていた自分に、状況を客観的に大きな視野で見ることを教えてくれた第3者の存在には、とても助けられたと思っています。

 

宣記10【序】デプテーション②

 宣教地に実際に渡る前に、日本の各教会を訪れて宣教の働きの紹介を行うデプテーション(教会訪問)に関する記事の続きです。

 前回の記事はこちらから 

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1.祈ること・祈られること

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 1年半に渡ったデプテーション。私にとっては初めて訪問する教会、初めてお会いする方々ばかりで、緊張の連続でしたが、どの教会も温かく私達家族を迎えてくださり、大変嬉しくまた励まされたことを覚えています。礼拝や集会の前日などに、早めに教会に行かせて頂く時には、教会の牧師先生ご家族をはじめ教会の方とお話しする機会も多くあり、とても元気づけられました。

 訪問した教会の牧師先生や伝道者の先生方からは、宣教に対するアドバイスをたくさん頂きました。その後のA国での働きにあたって、この時に頂いたアドバイスには何度も助けられました。既に天に召されたある先生に言われた「宣教地に行ったら、信仰に関する本を1か月に1冊は読んだ方が良い」という具体的なアドバイスは今でも心に残っています。時に孤独にも思える海外という環境の中で、身体面だけでなく信仰面での健康を保つことの重要性を教えられた言葉でした。

 また集会後は、教会の方々との顔と顔を合わせてのひとときを通して、そして温かい言葉を通して、祈られる恵みを強く実感することができました。ある方はA国に関する新聞の記事の切り抜きを渡してくださいました。またある方はA国に関する映画を見ていてくださったり、またある教会では集会後にA国料理やA国のデザートやお菓子を作ってみなで一緒に頂くこともありました。ひとつひとつのことを通して、温かい気持ちと励ましをいただきました。

 ある宣教師がこのように話していたのを思い出します。

 「いつも母国で祈られていると思えることは力になります。

 かつてデプテーションなどで訪問した教会の方々が、海外宣教のために祈ってくださっていると知ることは、宣教地で孤独な思いになる時にも、つらい出来事がある時にも、遠く離れた母国の教会を、そして「祈っています」という言葉を思い返すごとに、元気が与えられました。

 これもある宣教師から聞いた話です。その宣教師が宣教地にあって、悩み苦しんでいた、ちょうどその時に、母国の一人のクリスチャンからメールが届いたそうです。そしてこのような内容が書かれていたと。

「私は、なぜか分からないけれども、いまあなたのために祈らなければならないという思いになりました。あなたのために祈っています。」

 その宣教師はその一通のメールにとても励まされたと語っていました。そのメールの送られてきた不思議なタイミング。そして母国で祈られているという事実を通して。母国と外国とどんなに距離があろうとも、祈りに距離は関係ないのです。神様は確かに私達の祈りを聞いてくださるのです。そして私達の祈りを用いてくださり、祈りを通して働いてくださるのです。

  パウロはⅠテサロニケ書の中で、「祈っています(3:10)」そして「祈ってください(5:25)」と祈りによる関係を記しています。日本から海外宣教のために祈られてきた恵みを感謝しつつ、日本の教会の上に続けて祝福があるように祈っています。


2.遣わすこと・遣わされること

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 ある訪問した教会で、礼拝後に一本の長いロープの端を手渡されました。そして教会のメンバーの一人一人がそのロープを手にとり、一つの輪になって共に祈る時がありました。この「ミッションロープ」はとても心に印象的に残っています。遣わすこと、そして遣わされることを象徴的に示しているように思えたのです。

 遣わす者も、遣わされる者も、神様にあってそれぞれが大きな務めであり、使命であること。そのどちらが欠けても宣教活動はできないこと。宣教の働きは、多くのクリスチャンの方々の祈りと支えの中で、バラバラではなく一つのつながりの中で行われること。そのことをこの一本のロープは教えてくれました。

  思い返すと1年半に渡ったデプテーションは、多くの方々の手助けやサポートにより最後まで続けることができました。ある時には、遠距離を移動する私たちのために、泊まる場所や生活に必要なものを快く提供してくださったり、また様々な形を通して支えてくださったり、色々な出来事があった中で、本当に多くの方々に祈られ助けられた1年半でした。今、当時を思い出しながら、未熟さ故に数えきれない失礼やご迷惑をおかけしたことも多かったのではないかと恐縮しつつ、当時お世話になった皆様に感謝の思いを改めてお伝えできればと思います。

 宣教は一人で行うものではなく、多くの方々の祈りと支えがあって、なされるものであるということを実際に宣教地に行く前に、身をもって実感することができるのは、デプテーションの恵みかと思います。

「遠距離の移動は大変ではないですか?」とよく聞かれましたが、私達にとっては各地の教会を訪問できるのはただただ神からの恵みで、各地の訪問を通して多くの祝福を頂きました。私も家族も多くのことを教えられた1年半でした。当時、私達家族を受け入れてくださった教会皆様に心より感謝します。

  

3.宣教のバトン

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  後日、ある本を読んでいた時に、「自分は海外で働かれている人の証しを聞く機会がそんなになかった。聞く機会がなかったので、意識が高まらなかった。」「海外の宣教師が、自分の教会に訪問してきて、海外宣教の話をしたことによって、海外の宣教を思うようになった」と書かれていた証しがありました。

 私も牧師家庭で育つ中で、様々な場所に出ていかれる国内・国外宣教師の先生たちが教会(兼自宅)にデプテーションや宣教報告のために来訪されたことを覚えています。当時の幼い私にとって、宣教師と私たち家族との食事のひととき、また礼拝や集会の中で聞く海外の話などは、とても目新しく、また印象深く感じていました。

 今から考えると、幼い時から知らず知らずのうちに、宣教師の先生たちを通して影響を受けていたのだと思います。全ては神様の導きですが、その時に受けた影響は、今の歩みにも関連しているのでしょう。

 2005年からの私達家族のデプテーションの中で、私が幼い時に教会を訪問してきてくださった何人もの先生方に、今度はこちらから訪問する形でお会いすることができました。また海外宣教師の先生方には個人的にお会いして話をする機会もありました。どの先生もかつての教会訪問の思い出を懐かしそうに語ってくださいました。その話を聞きながら、先生方が私の教会を訪れてくださったからこそ、そして国内・海外を含めた宣教という道筋を見せてくださったからこそ、今の私があり、今の働きがあるということを改めて思わされました。

 今までの宣教の歩みの中で、宣教開始前のデプテーション、またその後の宣教報告などで、全国各地の教会を訪問する機会が与えられてきました。その中で、過去の私がそうであったように、ひょっとしたらどこかの教会で、将来の宣教師に出会っていたのかもしれないと思っています。海外に対して視野が広がり、思いが深まることに少しでもつながったのならば、どんなに嬉しいことかと思っています。海外への志やビジョンというバトンを受けた者として、今度はこのバトンを次の世代の方々に何らかの形でお渡しすることができたら感謝です。

 

宣記9【序】デプテーション①

 宣教地に実際に渡る前に、日本各地の教会を訪れて宣教の働きの紹介を行うデプテーション(教会訪問)が2005年より始まりました。今回と次回と2回に分けてデプテーションについて記憶をたどりながら書きたいと思います。 

 

1.1年半に渡る教会訪問f:id:krumichi:20210719135950j:plain   

 デプテーション(デピュテーション)という言葉自体は英語(deputation)ですが、教会で使われる用語として、主に宣教師が宣教地に渡る前に各地域にある教会へ、海外宣教への祈り、サポート、継続的な交わりのお願いのために訪問することを意味します。  

 私たちの場合は、2005年から2007年にかけての約1年半、北は北海道から南は沖縄まで、全国各地にある教会を訪問させて頂きました。私たちの派遣教会および当時の住まいは西日本でしたので、単身の場合は公共交通機関で、また妻と幼かった長女が同行して家族3人の時は車を使って、西日本から全国津々浦々を移動しました。

 時にはフェリーを使ったり、一人の時は夜行バスを使うこともよくありました。また車で長距離を移動した時は、家族で一緒に車中泊をしたことも記憶に残っています。車の中は、いつも着替えや生活用品、また車中泊用の寝具などで一杯でした。さながら常に引っ越しのような移動でした。

 長期間に渡る移動の中で、当時の住まいを不在にする期間も、時に2か月以上におよぶこともありました。防犯のこともあり、長期の留守時は郵便局に配達の停止をお願いしていました。また不在が長引いたある時、電気会社から滞在先の携帯に電話がかかってきたこともありました。しばらく電気が使われていないのを不審に思ってのことでした。

 ある時、久しぶりに顔を合わせた近所の人から「最近子供さん、外に出してないの?大丈夫?」と聞かれたこともありました。長い間、家族や子供の姿を見ないのですから不思議に思われても当然かもしれません。

 

 2.地球1周以上の走行

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 約1年半の車の走行距離は地球1周以上の距離となりました。途中、何度も車が故障したことも、今となっては思い出のひとつです。移動中のオイル漏れ、燃料漏れなどいろいろありましたが、一番記憶に残っているのは、燃料の凍結です。

 当時はディーゼル車に乗っていましたが、まだ寒い春先に車で東北地方を訪問した時のこと、夜の寒さに車の燃料が凍りつき、翌朝エンジンがかからなくなったのです。寒冷地では軽油が凍らないように、寒冷地仕様のものを現地のガソリンスタンドで入れないといけないということを知らなかったことが原因でした。訪問先では動かない車を前にバタバタとご迷惑をおかけしました。

 これも車で移動中の話ですが、ある地方のセルフガソリンスタンドで給油した時のこと、給油後に何気なく車を出発させると、1歳の長女が車の後ろを指さして、必死に「ママ~ママ~」と叫んでいます。不思議に思い、後部座席を見ると、そこにいるはずの妻の姿がありません。あわてて車を止めたのを思いだします。娘が叫ばなければ危うく妻を置き去りにしてしまうところでした。

 車での移動の場合、どうしても交通状況などによって到着時間が左右されてしまいます。ある教会で日曜朝拝に出席をし、その後夕拝のおこなわれる別の教会に車で移動するときには、遅刻しないように事前に道を地図で確認し、また所要時間も計算したりしていました。それでも突発的な渋滞などは予測できず、夕拝の時間に間に合わないのではないかとハラハラすることも何度かありました。

 日本の北から南までの様々な場所を車で移動して、改めて日本は様々な意味で広いことを肌で感じました。地域によって好まれる味も、気候も風習も文化も、また方言もそれぞれ異なるということを実感しました。そしてそれぞれの異なる地に主が置かれている教会のスタイルの多様性というものを実際に目にし、多くのことを学んだことを覚えています。

 

 3.体調の支え

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 長期間に渡り遠距離を移動するにあたって、大きな事故やアクシデントから守られ、また家族の健康や体調が支えられたことは感謝でした。娘は途中で何度か熱を出したりすることもあり、滞在先の方々にはご心配をおかけしましたが、大きな病からは守られ、神の守りを実感する日々でした。

 今でも思い出す出来事があります。長距離フェリーに乗ってある島の教会に向かっていた時のことでした。季節はまだ冬の時期だったこともあり、外海は荒れて波も高く、フェリーは今まで経験したことがないほどの激しい揺れでした。出航して4時間ほど乗船していましたが、妻の船酔いがあまりに酷かったため、目的地までそのまま乗り続けることをあきらめ、寄港した島で一旦下船することとしました。

 下船する予定のなかった島。土地勘もなく、船酔いの脱水症状で歩くことさえままならない妻と幼い娘とともに下船場で途方に暮れていました。すると、客の送迎に港まで来ていたあるホテル従業員の方が、困っている私たちを見かねて、いろいろと親身になって助けてくださったのです。おかげで、島で唯一の総合病院に行くことができました。

 妻はその病院で数時間の点滴治療。また、ちょうどその日は、1ヶ月に2回小児科の医師が遠隔地から巡回診療に来島の日ということで、数日前から少し気になる症状があった娘も診てもらうことに。その結果、娘も体調を崩していたことが分かり、急きょ予定を変更することとなりました。私達にとっては見ず知らずの場所でしたが、神様は宿泊する場所も備えてくださっていました。予定外のハプニングの中でも、神様は共におられ、確かに守ってくださることを実感した印象深い出来事でした。

 *****

 振り返ると、私達は1年半でデプテーションを終えることができましたが、アメリカ人の宣教師からは、デプテーションで3年以上費やすこともあると聞いたことがあります。日曜の朝拝と夕拝の教会間の移動も距離にして300キロの時もあると。また各地域の訪問のためにキャンピングカーで家族と共に移動することもあると。アメリカらしいスケールの大きい話だと思いました。まさに神の助けが必要な働きだと思います。

 デプテーションは、実際に宣教地に行くひとつ前の段階の働きです。とはいえ、デプテーションは多くの時間を要し、またその行程の中で何度も心や思いが探られ、また将来の働きのために身も心も整えられていく時だと思います。デプテーションを通して様々なことを経験し、また神様のわざを身をもって体験する中で、神様が共におられ、神様が遣わしておられるという確信が深められていく時でもありますし、各地の教会を訪問する中で、その教会のクリスチャンの方々との交わりの中で、多くのことを学び、また神様から教えられていく時でもあると思うのです。

 海外の宣教地に行く前とはいえ、デプテーションも母国における大事な海外宣教の働きのひとつだと考えます。海外宣教への思いと重荷が、教会と宣教師の相互に深まり、共有される大切な機会です。まだ派遣前で何の経験もない宣教師を快く受け入れ、祈り支えてくださる各地の教会あっての働きであり、感謝の思いなくして当時のことを振り返ることはできません。

 もし今後デプテーションをされる宣教師の方々がおられるならば、どうか神の導きと助けの中で、健康が支えられそして全てのことが守られますように。   

 

 つづきはこちらから

 

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宣記8【序】宣教と宣教団体

 ▼前回の記事はこちらから

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 A国への宣教視察を終え、神の導きと聖書のことばの励ましの中で、実際に宣教に行く準備が進みます。2005年の母教会総会にて正式に私たち家族が母教会からA国に派遣されることが決まりました。これにより私にとっては母教会=派遣教会となりました。

 続いて、宣教委員会(宣教団体)へ申請をおこないました。面接と審査の上、宣教委員会に所属することが認められ、かつ推薦を頂くことができました。この推薦をもとにして、諸教会を訪問するデピュテーションが2005年の6月から始まることになります。

 今回はこの宣教委員会(宣教団体)についての話を中心に書きたいと思います。

 

 1.あの日本人は何者なのか

 

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 聖書を見ると、宣教は地域教会の働きであり、ひとつの地域教会の判断や決定のもとで、宣教師がその教会から他の場所へと遣わされていくことが分かります。

 しかしながら、現在の複雑な世界情勢の中で、ひとつの地域教会が単独で宣教師を海外に送り出すことには、様々な困難もあります。ある国では、個々人ではビザがスムーズに発給されないこともあるでしょう。入国に際しては、団体などのバックボーンや保証、また招へいが必要なこともあります。

 そのため、私が所属していた宣教委員会の場合、同じ立場にあるいくつかの教会が協力し合って宣教の拡大を目的とした委員会を構成し、所属宣教師が海外でスムーズに活動できるように、事務的な面、対外的な面や、長年の蓄積されてきた経験からの助言などのサポートをおこなっています。海外に宣教師を派遣することに関してのノウハウをあまり持っていない地域教会や、経験のない宣教師にとっては、大変助けられる存在です。

 無論、宣教師を派遣し、最終的な責任を持つのは宣教委員会や宣教団体ではなく派遣教会です。宣教師にとっては派遣教会の存在が一番重要であると私は思います。宣教は教会のミッションであり、派遣教会なくしての働きはないからです。国によっては団体に加入するしないに関わらず、個々人でビザを取得して入国し活動ができるところもありますので、宣教団体に所属せずに派遣教会から直接宣教地に遣わされて活動している宣教師もA国にはいます。

 

 では、宣教団体に所属する宣教師にとって助けられる点とは何か。いくつか挙げられますが、そのひとつは、宣教団体から頂ける「推薦」だと思っています。初回のデピュテーションに際して、各教会は、見ず知らずの宣教師を受け入れるかどうか判断に迷うこともあるのではないかと思いますが、派遣教会の「推薦」に合わせて、客観的な視野に立つ宣教委員会や宣教団体からの「推薦」もあれば、その宣教師の信仰的な立場やバックボーンを知るひとつの目安となります。その目安をもって、受け入れを判断することが可能となります。

  そしてそれは海外に行っても同じなのです。海外では日本以上に「彼らはいったい何者なのか」という問題が生じることになります。

  海外に遣わされた宣教師が現地で全く単独で働きをすることは少ないように感じています。多くの場合、現地にある信仰的な立場が同じフェローシップやグループに加わり、そのグループを通してビザの手続きや政府への登録などの支援を受けたり、情報を交換し合ったり、何かの事態には宣教師同士で助け合うことになります。A国の場合、私たちが現在加わっているグループは、そのほとんどがアメリカ人、フィリピン人、韓国人の宣教師が占める中で、日本人宣教師は当初誰もいませんでした。

 既に同国人宣教師が現地にいる場合は、たとえ新しい宣教師がやって来ても、その宣教師の背景や母国での事情もだいたい分かりますから、皆に推薦した上で、すぐに交わりに受け入れられます。しかし、私たちのように、そのグループ内には日本人は誰もいない。私たちの日本での背景やバックボーンを知る人も誰もいないところで、交わりに加わろうとする場合に「あの日本人は一体何者なのか。本当に信頼できるのか。」という目で見られるわけです。

 後にA国宣教の中で、地方へ働きのために行くことになりますが、その地方のある教会と交わりを深めたことがありました。その教会の牧師は後になってこう明かしてくれました。「今だから言えますけど、先生がはじめてこの教会に来られた時、警戒していたんですよ。どこの誰か背景が分からないからと。」「へえ、そうだったんですね。」私は苦笑いしながらも、心の中で、それは教会を守る牧師として当然のことだし、もし自分がその牧師の立場でも同じようにするだろうと思ったのです。なぜなら、自称宣教師にまつわる残念な話をA国ではよく耳にするからです。誰か信頼できる人の推薦かとりなしがなければ、受け入れにくいのです。

  結局のところ、A国で私たちを助けてくださったのは、あるアメリカ人宣教師でした。私が日本で所属していた宣教委員会のルーツを知り、その宣教団体の推薦があるならば信頼がおけるとのことで、私たちを皆に紹介してくださり、グループへの加入が認められたのでした。その宣教師はにこやかに言いました。「今度日本から新しい宣教師が来ることがあったら、あなたがいるから楽だね。」

 

 聖書を見るとパウロはかつて教会を迫害する者でした。キリストを信じてから後、多くの教会は彼を受け入れるのを怖がっていた中で、バルナバが最初に彼のことを受け入れ、そして教会に紹介し、とりなしたのです。後にパウロ自身も、ローマにある教会に「フィベ」を推薦したり、エペソやコロサイの教会に「ティキコ」を紹介したりしました。

 誰もその人の素性や背景を知らない中で、その人を推薦してくれる人物や団体があると、受け入れる方も安心できます。そのような意味で宣教団体の推薦には日本でも海外でも助けられているのです。

 (以上の話は、私の経験に基づいた話です。宣教師によっては、国内外における宣教団体との関係、また他国に送り出される手順など上記とは異なるケースはたくさんあることをご理解ください。)

 

2.宣教とは共同作業

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  A国に来た当初、誰も自分たちのことを知る人がいない中で、宣教団体の推薦、またそのルーツにも助けられたことを書いてきました。それぞれの教会にはルーツがあり歴史があります。その教会はどのような教派の流れにあり、どの国のルーツがあるのか、どの教会の働きからどのような流れで誕生して今に至るのかというルーツです。

 普段はあまり意識することはないのですが、クリスチャンは皆、自身が属する地域教会のルーツの流れの中にあるともいえます。海外に行って、今一度自分の信仰のルーツを意識することになりました。今まで過去におこなわれてきた宣教の働きがあり、そのルーツの中で私の派遣教会があり、そしてA国での働きがある。実に宣教とは、時代を超えた共同作業のようなものだと思っています。決して個人だけでなされるものではありません。

 

 宣教師の派遣には、宣教師を送り出すひとつの地域教会の長い祈りと大きな犠牲があります。そして宣教委員会、団体の助けが必要です。また日本中の交わりがある多くの教会、クリスチャンの祈りと支援があって働きが継続できています。A国宣教にあっては、当初から宣教レポートの発送の働きをしてくださっている方々がおられます。デピュテーションの時に、宿泊場所などを快く提供してくださった方々もおられます。ここには書ききれないほどに様々な形によるサポートや手助けを頂いてきました。

 そして、宣教地にあっては、当初見ず知らずの私たちを受け入れてくださった現地の教会、実際に日本から宣教地に足を運んで励ましてくださったり、子供たちの教育を支援してくださった方々。家族のために必要な物を送ってくださった方々。ひとつひとつの支援がなければ、長年に渡って継続することができない働きでした。心から感謝します。

 

 パウロもこう書いています。「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。」

 パウロの働きも決して一匹狼のような働きではありませんでした。多くの教会の祈りとクリスチャンたちによる様々なサポートによってなされていたのです。

 ひとつの目に見える働きの背後には、多くの目に見えない祈りがあり、そして様々な形を通した手助けがある。 

 繰り返しになりますが、宣教とは個人の働きではなく、主ご自身の働きであり、主にある教会とクリスチャンによる共同作業であり、その目に見える形でのあらわれなのだと思っています。

 

宣記7【序】視察のための渡航②

 今回は2004年の宣教視察の話の続きです。前回の話はこちらから。

 

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  滞在中、既にA国で働きをしていた外国人宣教師たちから多くの話を聞くことができました。短い期間ではありましたが、この時に見聞きし、そして学んだことは、この後の働きのための大きな財産ともなりました。

 

1.神が望んでおられることは何か

 

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 私が視察にA国に行った時は、長い内戦が終結し、宣教師が自由に活動ができるようになって10年ほどが経った頃でした。その頃A国には、様々な国から宣教師が入って働きを始めていました。

 数人の宣教師から様々な話を聞きましたが、興味深かったのは、宣教師それぞれに個性があり、それぞれに考えがあり、またそれぞれに工夫している点があるということでした。そしてそれは皆同じではないのです。

 首都から遠く離れた場所で働くある宣教師は、現地伝道者を育成する働きを主におこなっています。私が訪問した時は、貧しい人々が多い地域だったことを覚えています。その宣教師は自らの働きのための建物を持っていませんでした。様々な場所をその時々に借りながら働きをしていました。

 その宣教師は言いました。「例えば建物を建てたとする。でもそれを誰が維持できると思う?もし外国人宣教師が去って、現地のクリスチャンたちだけで維持できないのなら、ずっと海外からの支援に頼りっぱなしになってしまうだろう。」

 それならばと、あえて自前の建物をもたず、自前の設備をもたず、現地の信者たちのみで維持・継続していけるような形でミニストリーをおこなっているのです。短期的な見方よりも、長期的視野に立って働きをする姿が目に焼き付きました。

 その一方で宣教地によっては、まず教会としての会堂があった方が、周りの人たちに信用されやすいこともあると耳にしたことがあります。それぞれの宣教地にそれぞれの特色や事情があり、それぞれに違いがある。その中で、遣わされた場所のことをよく理解していくことが大切なのだと感じました。

  

 また、他の宣教師の話も印象的でした。「ここで福音を話す時はね、私はまず聖書のはじめにある創世記から話すようにしている。」

 「なぜかって、A国はキリスト教国ではない。もともと多くの人が抱いている神観からして違うんだよ。宣教師の私が理解している神観と、この国の人たちが思っている神のイメージがまず違う。そこでいきなり神の話をしても正しく伝わらない。だから、創世記の天地創造の話から始めて、聖書が教えている創造主の神様を伝えていくんだ。」

 その宣教師は話を続けました。「まず福音を伝える前に、その地を耕すことも大切なんだよ。地ならししないといけない。現地の人たちが理解できるところから話していって、そうしながら聖書のメッセージを伝えていくのがこの地では良い方法だと思う。」とても印象的な話でした。

 

 その他にも多くの宣教師から話を聞くことができました。ここでは書ききれないのですが、どの話も深く、それぞれに工夫をされている様子が伺えました。そしてそれは皆同じではないのです。A国でも日本同様に都会でのミッションと地方でのミッションはスタイルが違います。伝道の方法も違います。私も後の働きの中で、A国の地方に導かれた時がありましたが、様々な違いを改めて実感したことを思い出します。

 その中で、自分が置かれた場所にあって、その場所のことをよく知り、そしてその場所に合ったやり方で、神からゆだねられた務めを果たしていきたいと願うのですが、その判断の助けとなるのは何なのか。

 これも視察の中で耳にしたある宣教師の言葉ですが、心に残る言葉でした。それは「神が本当に望んでおられることは何なのだろうか」

 

 例えば、宣教師はある国から他の国に遣わされるのですが、働きを進めていく時に、言葉の面で、また文化の理解の面で、どうしても限界があることを実感します。その中で最善を尽くそうとするわけですが、ある時は自らの母国のスタイルを絶対化してしまって、母国のスタイルを現地の教会に押し付けることになってしまったり、また良かれと思ってしたことが、逆に現地の教会やクリスチャンたちの自立を妨げることになってしまうこともあります。これは私自身の今までの歩みの反省点でもあります。その中で、いつも祈り、そして自分に問わなければならないのは、「神様がここで私に望んでおられることは何だろうか」という問いなのだと思うのです。

 

 A国の教会事情もそうですが、視察を通じて教えられたのは、宣教師はみな個性も違い、それぞれ働きも異なること。みな一緒のやり方でなくて良いのです。もちろん福音を伝え、現地の教会の建て上げに携わり、主の弟子を育成するという宣教の柱であり原則は変わりません。それは全世界どこに行っても同じです。しかし、それを実現していくための手法はそれぞれ異なります。宣教師の出身国(アメリカ、韓国、フィリピンなど…)によって、手法にそれぞれ違いがあることも興味深いことです。その違いもまた神様は用いてくださるのでしょう。

 一人一人に賜物が与えられ、そしてその賜物に応じて与えられた使命を果たしていくことを、神は求めておられる。そのためには、繰り返しになりますが「神はいまここで私に何をすることを望んでおられるのか」という祈りは大切だと思っています。今までもそしてこれからも、導かれた場所で、自分自身にそのことを問い続けたいのです。

 

2.視察の旅を終えて

 

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 約1週間以上に渡った視察期間を終えて、帰国しました。途中激しい食あたりにあい、数日間寝込んだのも元来胃腸が強くない自分にとっては予想の範囲内でした。しかし、宣教の現地で見た多くの現実は、私にとっては負いきれない重荷のように感じました。荷が重すぎると思いました。「いったいA国で私に何ができるのだろう。」帰国してもしばらくそのような思いにとらわれました。

  私が見た宣教地の世界は自分の想像よりもあまりに広く、それに比べて自分の持っているもの、能力があまりに小さく思えたのです。本当に自分はA国に遣わされるのだろうか。本当にやっていけるのだろうか。正直心の中には不安が渦巻きました。この視察の時、長女はまだ生後数か月だったため、妻は同行せずに日本に留まったのですが、帰国してから妻に「どうだった?」と聞かれ、弱気の中でこう答えたことを覚えています。「本当に神に導かれていなければ、行くことができないよ。」

  そこからどのようにその思いを乗り越えて、実際にA国に渡ったのか。今となってははっきりとは覚えていないのですが、ただ神の導きと励ましと、そして後押しがあったゆえだと考えています。 

 以前にある宣教師と話したことを覚えています。「私は一歩踏み出すことが苦手。いろんなことを思って不安になったり、神様の導きだと分かっても、なかなか前に踏み出せないんだ。でもね…」とその宣教師は言いました。本当にここだという時は、神様が背中をポンと押してくださるんだよ。前に進めるようにね。その宣教師の言葉にとても励まされた自分がいました。

  視察の旅で、宣教地の現実を改めて見せられました。その大きな必要を前に、あまりに自分が弱く思えました。しかし感謝なことに、神はそのような私の背をずっと押し続けてくださったのでした。そして今に至るまで押し続けてくださっていることを感謝します。

宣記6【序】視察のための渡航①

 神学校を卒業して、ある地方の教会で約2年間に渡って奉仕をしました。その後、母教会に戻り、A国に行く準備を本格的に始めていきます。

 多くの宣教師は、実際に海外に渡る前に諸教会への訪問を行いますが、その訪問を始める前に、A国に宣教視察のために行きました。2004年のことでした。1995年の学生時代に初めてA国に行ってから既に9年が経っていました。

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 数年ぶりに渡ったA国。まるで違う国にやって来たかのように、多くの物事が変化していました。空港はきれいになり、街は建物も増え、様変わりしていました。そして9年前にはあまり見かけなかった教会も増えていました。それとともに、街の中を裸足でかけまわる子供たち、客を乗せて運ぶ三輪自転車タクシーなどの懐かしい姿。それらは年月を経ても変わっていませんでした。

 知人のつてを頼って、A国で働いている外国人宣教師と知り合い、その方の紹介でA国のいくつかの現地教会の活動や様々な様子を見てまわることができました。日本の教会とは違う多くのことに驚かされる数日間でした。

 

1.現地の教会

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 まず、当時のA国の首都にある教会を訪問して驚いたのは、たくさんの子供たち、そして青年たちの姿でした。どの教会も子供たちであふれていました。また集会には多くの青年たちが出席していました。比較的に壮年の姿が少ないように見えましたが、これにはいろんな事情があることを後に知ります。しかし、日本の教会から来た者として、A国の教会のこのような光景には、大変驚かされたことを覚えています。

  また印象深かったのは、訪れたいくつかの教会には、日本で見られるような様々な設備がほとんどないことでした。オルガンやピアノなどの楽器、またコピー機印刷機などの機器もない教会もありました。週報などもありませんでした。

 ある教会はトタン屋根だけで壁がなく、半分野外のような場所で礼拝をおこなっていました。またある教会の賛美はギターを使ったり、楽器がないためアカペラでしていました。屋根がない教会の集会で、空を見上げながら賛美をするのはとても新鮮でした。

 特別伝道集会のような定期的なプログラムなどもないようでしたが、それでも青年たちは教会に友人を積極的に誘い、新しい方々が教会に加えられていくのです。

 この時に私が見たA国の教会は、一言でいうならば「シンプルな教会」でした。物はなく、設備もなく、丈夫な建物もない。しかし、多くの方々は礼拝をするためにひとところに集まり、そして喜んで神様を礼拝している姿がそこにはありました。その光景が記憶に残っています。もちろん教会は様々な機器や設備があれば、それだけ活動の手段や可能性も増えることでしょう。またメンバーの人数も増し加われば、それに合わせてスタイルを変えていくことも必要でしょう。それらは大事なことだと思います。

 ただ、この時に目にしたA国の教会の姿に、何か教会の原点のようなものを感じたことを、今でも思い出すのです。

 

2.外国人であること

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 ある教会で集会に出席した後、一人の青年から声をかけられました。「私はずっと日本から宣教師が来ることを祈り願ってきました。だから会えて嬉しいです。」その言葉が私の心の中から離れませんでした。

 「日本からの伝道者」「日本人であること」今まであまり意識してこなかったこれらのフレーズ。この時にA国に行って、強く考えさせられたのです。

 それからも滞在中に、A国で働いている外国人宣教師たちに出会い、話す機会がありましたが、あることを共通して言われました。「A国での日本のイメージはとても良い。」「あなたは日本人なのだから、日本人としてこの国でできることはいろいろとあると思うよ。」訪問した教会でも、日本人ということに注目されている気がしました。

 A国で日本人クリスチャンは珍しかったこともあるかと思いますが、その点を強調されたのは、私にとって意外なことでした。日本で生まれ育って、今まであまり日本人であるということを私自身強く意識したことなく過ごしてきたのですが、日本を一歩出ると、自分は外国人であるということに改めて気づかされるのです。そして、その中でも自分が「何人」であるか、自分自身のアイデンティティについて意識するようになるのです。

 「A国で日本人としてできる働きがある」という視点。当時A国にあって日本人は歓迎され、受け入れられやすかったという事実。その背景には、長年に渡る日本のA国に対する多くの支援などの理由があってのこと。そのような恩恵があったことを感謝しています。

 しかしそれと同時に、現地であまりにも日本人であることを強調されることに少しの戸惑いも感じていました。私は福音と聖書のことばを伝えるためにA国に来たいと思っているのであって、日本人として日本的なものを伝えに来たいと思っているのではないという戸惑いでした。私の思いと周りの目とのギャップを感じたのです。

 このことについて、他国に遣わされている日本人の宣教師たちと話したことがあります。ある宣教師はこのように話してくれました。

「私は、遣わされた国の人になりきろうと思ったことがある。そして今でもできる限りそうしているつもりだ。思いは大事だから。ただ、それには限界はある。結局のところ、何をしても周囲からは外国人として見られる。100%現地の人にはなりきれない。その事実は事実として受け入れないといけない。でも、その中で、外国人である日本人にしかできない働きがあり、日本人宣教師ならではの働きがあると思う。」

 その宣教師の言葉、そしてその宣教師の思いは、今でも私の心に残っています。この言葉を聞いてからもう15年以上経ちますが、それからの私自身の体験を振り返った上でも、その通りだなと思わされています。

  聖書に出てくるパウロはどうだったのだろうかと考えさせられます。彼はユダヤ人でしたが、ある時は福音のために自分がユダヤ人であることを強調しました。福音宣教のために彼が持っていたローマ市民権を用いました。そして、ある時は福音のためにあえて「律法をもたない人」のようにもなりました。

 ユダヤ人というこの世界におけるルーツやアイデンティティという枠を持ちながらも、パウロは彼の思いと行動の中で、その枠から自由にされ、また解放されていたようにも思えます。解放されているからこそ、ある時は自身のアイデンティティを強調することもでき、ある時はそれをあえて抑制することもできた。そのすべては福音のために。

 結局のところ、クリスチャンはこの世界における人種や国籍という違いを超え「天国人」として、キリストにあってひとつの国籍の者とされている。そして、福音にあって、私たちはそのような違いから解放され自由にされている。その一方で、神様は私たち一人一人に摂理を通して、この世界の中での「国籍」であり「アイデンティティ」を与えてくださっている。それは、神のご計画の中で意味と目的があり、神様はそれらを用いられることもある。

 これは今の私の考えです。ただ、現実問題として、なかなかパウロのようにこの世界の枠組みから解放されないんですよね。どうしても引きずってしまいます。「日本人としての働き」については、また書く時があると思います。

  

 少し長くなったので、視察の続きは次回に。

 

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。

Ⅰコリント9:19

 

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