南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記5【序】宣教地に行く前に

 神学校で4年間、聖書を勉強する機会が与えられました。ここからは卒業後の話です。

 神学校を卒業して、短い期間でデプテーションを始め、早い内に海外に遣わされる宣教師もおられますし、卒業した後、日本の教会でまとまった期間、奉仕をされる宣教師もおられます。もし宣教委員会や宣教団体に所属する場合は、それぞれの規約もありますし、また一人ひとりに神様からの異なる導きがあると思いますので、どちらがということはないのですが、私の場合、海外に行く前の約2年間、日本のある教会(派遣教会以外)で奉仕をすることとしました。そして振り返るならば、この時の様々な出来事は、その後の海外での働きのために大きな助けとなったのです。

 

1.聞き取れない方言

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 私が神学校を卒業した後に奉仕をした教会は、ひとつの島の中にありました。今まで地方都市に住み、どちらかといえば街の中で幼い頃より育った私にとっては、自然豊かな環境の中で長い期間暮らすのは初めてで、全てが新鮮な体験でした。

 住み始めてまず衝撃を受けたのは、その地域の言葉(方言)でした。最初の時期に、近くの銭湯に行ったのですが、壮年の人同士が会話している方言が全く聞き取れず、言葉の意味が分からないのです。私にとっては外国語のようにも思いました。日本にいながら、言葉(方言)が聞き取れないという体験を初めて味わい、驚きでした。 

 教会で奉仕をしながら、島の中にある店でアルバイトを始めましたが、店に来るお客さんの方言が強くて、お客さんが何を注文したのかも聞き取れないのです。お客さんとしても、従業員(私)に話したことが伝わっていないので、怪訝な顔をされます。私の胸の名札に書かれている苗字を見て言われました。「あなた島の人じゃないね。どこから来たの?」

 そのようなことが何度もあり、当時の上司からはよく小言を言われましたが、それも方言なので何を叱られているかが分からない。叱られている内容が分からないので、同じことを繰り返し、また叱られる。これはとてもつらかったことを覚えています。

 その中で、一緒に働いていた同僚に方言を少しづつ教えてもらいました。

「この言葉の意味は何?どういう時に使うの?」

 次第にひとつひとつの言葉の意味が分かってくると、話の内容の理解が深まっていきます。言葉のイントネーションの違いが分かってくると、ぎこちなくても多少のイントネーションは話す相手に合わせることができるようになります。

 徐々にお客さんともコミュニケーションが取れるようになっていくと、見える世界が変わっていきました。また、自分が新しい環境に少しでも足を踏み入れることができたような気もしました。言葉というのは、実に奥が深いと思ったものです。

 

 この時の体験を通して、新しい言語を学ぶ時には座学だけでは不十分であり、実際の生活の現場の中で、時にはつらい思いをしながらも、身につけていく必要があること。そして、たとえ言葉が分からなかったとしても、コミュニケーションを取る方法はいくらでもあることを学びました。

 今でも、何かの話をする時には、私自身の故郷の方言、神学校があった地域の方言、そしてこの島のある地域の方言がミックスされ、イントネーションもバラバラで、時々「何か言葉が変だよ」と家族に言われます。本当に言葉が上手な人は、頭の中にスイッチがあるかのように、その場所に合わせて方言を切り替えることができるのでしょう。私はそれが苦手なのです。

 でも私にとれば、どの方言も、その時の自分の生きていた証しのような、自分にとっては切っても切り離せない大切なものなのです。

 

2.それぞれの伝道スタイル

 

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 島の教会では、トラクトをもって伝道に行きました。教会の牧師先生が1軒1軒まわって、会う人ににこやかに話しながらトラクトを渡します。ここでは「まず顔を覚えてもらうことが大事だよ」と。今まで私が経験してきた都市の教会の伝道とはまた違うスタイルがありました。

 1軒1軒といっても、隣家とは時に数百メートルも離れていますから、車で移動します。そして、島内の近隣で出会う方々の多くは牧師と古くからの顔なじみです。世間話もしながら、教会の集会案内をします。たまに訪問先で野菜を頂いたり、卵を頂いたりもします。「神様からのプレゼントだね~」と、伝道の後に美味しく頂きました。まず周りの方々と人間関係を築いて、そしてその関係の中で福音をお伝えしていく。

 

 後にA国の地方の街で集まりを始めた時に、私はこの島の教会で学んだことを用いました。子供たち対象の「勉強クラブ」を通して、近隣の方々に顔を覚えてもらい、信頼関係を築きながら、福音をお伝えしていきました。もちろんA国でも首都では、首都ならではの伝道のやり方があります。

 それぞれの国のそれぞれの地域教会に、それぞれ固有のスタイルがあります。それは、その地域ならではのものもあり、決して他と同じではありませんし、他と比較されるべきものでもありません。そしてその違いこそ、神が地域教会に与えてくださった素晴らしさのひとつだとも思うのです。

 

 私は自分の育った教会のスタイル、また幼い頃から育った地域、文化、言葉、また様々な背景に愛着がありました。最初、島の教会で奉仕を始めた時には、多くの違いに戸惑ったものです。しかし、聖書の中でパウロ

ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。」

と述べているように、遣わされる場所によっては、自分の持っているスタイルや固定観念をあえて変えていかなくてはならないこと。そして海外で働くためには、自分が培ってきた日本的な教会スタイルをその地に伝えるのではなく、聖書から福音、そして本当に大切な原則を伝えなければならないということ。A国に行く前に、そのことを学ぶことができたことを感謝しています。

 ある宣教師が言っていた言葉を思い出します。「私は母国のスタイルを宣教地に伝えるのではなく、『十字架につけられたキリストを宣べ伝え』るのです。」

 その通りだと思います。

 

3.小さなカルチャーショックから始める

  A国に行ってカルチャーショックは受けませんでしたか?とよく聞かれましたが、いま振り返っても、私にとっては島で暮らした約2年間の方が、A国に行った時よりも大きなカルチャーショックを経験していたと思います。

 先にも書きましたが、島の言葉が分からなくて苦労したという経験は、A国に行った時にも「全く言葉が分からない」中で生かされました。

 島に住んでいた2年間の中で、ムカデに7回も噛まれ、痛い思いをしましたが、それを前もって経験していたので、A国でサソリが自宅の部屋の中にいた時も、「これがサソリか」とは思いましたが、腰を抜かすほどの驚きはありませんでした。

 また、島の教会堂に蛇が入ってくる体験を2回もしていたので、同じくA国で自宅の中に2回蛇が入って来た時も、もちろんびっくりはしましたが、動揺はしませんでした。

 以前に似たような出来事を少しでも経験していると、新しい環境に入る時にも、その経験は自分にとっての強みともなります。転校、転勤、転職、引っ越し、生活の中での大きな変化などをとっても、その時の楽ではない経験はいつか生かされるのだと思います。

 

 後から本を読んで知ったのですが、海外で異文化の生活する前に、事前に母国などで小さなカルチャーショックを受ける経験を段階的に重ねていた方が、海外でより大きなカルチャーショックを受けることから守られて、よりスムーズに異文化の環境に適応しやすいと。日々の生活の中で、小さなカルチャーショックがあるならば、自分に与えられたキャパシティ(許容範囲)の中で、それを受けていくことは良いことなのです。ひょっとしたら、それは将来のための神様からの備えかもしれません。

 そのような意味では、A国に行く前に、まとまった期間、島の教会でお仕えする機会が与えられたのは、今から振り返っても神様のお導きだったと思い、神様に、そして島の教会に感謝しています。

  神様は人生の中で無駄な経験は与えられない。そのひとつひとつの経験は将来のためであり、いつか必ず生かされるものであると信じています。 

 

 すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。

Ⅰコリント9:22

 

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宣記4【序】宣教師としての準備

▼このブログが初めての方は、こちらもどうぞ。

 

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  海外宣教への導きの中で、その方向へ進むための準備に入りました。勤め先を退職した上で、聖書をより深く学ぶために、1998年に神学校に入学しました。今回は4回目の記事として、海外宣教にあたってのいくつかの準備がテーマです。

1.神学校での学び

 

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 私が入学した神学校では、計4年間を通じて聖書を体系的に学ぶことができました。幼い時から教会の中で育ってきたことを通し、感覚として得てきていることを、もう一度基本から再構築していく。また聖書から裏付けしていくという作業は、苦しくもあり、楽しいものでもあり、様々な発見もありました。

 4年間で教えられたことは多くありましたが、神学校とはある意味で、聖書の学び方を学ぶところであって、学校を卒業したからゴールではなく、卒業してからがスタートだと、そのことは私の胸に強く残っています。

 4年間に渡り、共に机を並べて聖書を学んだ同窓生、先生方との交わりからもたくさんのことを教えられました。私のA国での働きの土台は、神学校で学んだことにあります。母校に感謝しています。

 神学校で学ぶためには学費が必要ですが、就職して仕事していた時の蓄えは数年で底をつき、あとは長期休暇の間のアルバイトでつなぎました。工場、深夜、様々なアルバイトを通して、また様々な形を通して、時には不思議な方法も通して、必要を全てご存知の神様は、必要を必ず備えてくださるお方であることを、神学校時代の体験を通じて教えられました。

 神学校での学びと訓練は、座学だけでなく、人格や信仰、全ての面に及ぶということを身をもって知りました。その過程は卒業してからも、今までも、そしてこれからもずっと続いていくのだと思います。

 

2.神学校を卒業して

 

 神学校を卒業したのは2002年でした。その後結婚し、様々な準備や諸教会訪問の後に実際にA国に遣わされたのは2007年になりましたので、卒業して5年間が過ぎていました。

 海外に宣教師として行くのなら、なるべく若い方が良い。神学校を卒業したら、すぐに海外に行くべきだという意見も耳にします。これは正論だと思います。語学を学び自分のものとするためには、若ければ若い方が良いということは確かで、実際に海外の現場でそのことを実感します。また、異文化に適応するのも、若ければ若いほどより柔軟だと思います。

 以前、ある青年の方がまとまった期間、A国に滞在されたのですが、短期間で外国の環境に適応し、A国語も発音良く上手に話しているのを見て驚いたことを覚えています。私の周りのA国語を流暢に話す西洋人宣教師の多くは20代半ばぐらいで国を渡ってきているようです。一方、私の知る韓国人の宣教師たちは、40代から50代にかけて、子供が自立してからA国に渡ってこられる方々も多くいました。これはそれぞれのお国柄、またそれぞれの国の教会の背景もあるのかもしれません。

 アジア、特に中華圏では、一般的に年長者を敬い、年長者の言うことには耳を傾けるというような文化があります。中華の影響があるアジア圏宣教では、若年者よりもむしろ年長者だからこそできる働きもあるのだと思います。

 私は結果的には30歳を過ぎてから、宣教の働きのためにA国へ渡航することとなりましたが、異文化に入り適応していくために、一番気力が必要な最初の時期を30代で過ごせたのは、今から振り返れば良かったのかもしれません。(40代半ばぐらいから、急に健康面で不安が生じるようになりました…。)

 神学校を卒業して渡航まで5年かかったということに関しては、卒業後のしばらくの期間、日本の教会で奉仕するという導きもありましたので、私にとっては必要な期間でしたし、その期間の奉仕からも多くのことを教えられました。

 宣教地の門が開かれるまで、かなり長い年数に渡って、忍耐して待たれた宣教師もおられます。その宣教地への思いと耐え忍ばれた姿に尊敬します。時は神のもの。人それぞれに最善の神の時があると思うのです。

 

 3.宣教師としての準備

 宣教師としての導きを受けた時に、どのような準備をしたらよいのか。必要な準備は様々な面でたくさんありますので書ききれないのですが、ある先輩の宣教師からは、まず英語を学びなさいと言われたことが印象的に残っています。英語はどこの国に行くにも大事だからと。

 これは私個人の経験からもそう思います。英語はできて損はないですし、できるほどに現地で得られる情報量は増え、それによる選択肢や可能性も増えていきます。

 また、現地にてその国の言葉を学ぶ時に、多くの場合語学学校では、最初は教師と生徒共に英語を使って勉強します。マイナーな言語であればあるほど、教科書も辞書も英語で書かれたものしかありません。(もし現地語を学ぶための日本語で書かれた教科書、辞書があれば、それは素晴らしいことです。)

 そういうわけで現代世界の共通語である英語が話せると、より便利とはいえます。パウロが当時多くの場所で宣教の働きが可能だったのは、その当時の公用語であったギリシア語ができたからだという文章を読んだことがあり、なるほどと思ったことを思い出します。かくいう私も英語力には自信はなく、苦労しているのですが…その中である西洋人宣教師にこう言われたことがありました。

「私の母国語は英語、あなたの母国語は日本語。だから互いにとっての共通語であるA国語で話そう。」

 その提案を聞いて、なるほどそれはイーブンだと思いました。それからというもの、西洋人宣教師とはA国語で話をしています。現地のクリスチャンにとっても、外国人宣教師同士が現地の言葉で話していると、話している内容が分かるので、安心感があるようです。(日本で他国の宣教師同士が日本語で話している感じですね)

 

 他にも準備ということでは、他国に遣わされている宣教師が教会訪問で来られた時や、出会う機会などに、先輩の宣教師からいろんな話を個人的によく聞きました。その中でアドバイスを頂いたり、特に現地で大変だったこと、また失敗談なども個人的に聞くことができたのは貴重な時でした。また、海外に行くにあたっての実務的なこと、手続きのこと、デプテーションのことなど、私は先輩の宣教師から多くのことを教えて頂きましたし、実際に助けられたことを感謝しています。

 

 最後に、私自身は経験がないのですが、もし可能であれば、実際に海外の宣教地にインターンのような形で、まとまった期間行くことはとても有意義なことですし、それは一番の準備だと言えるかもしれません。

 実際にA国に行って気づいたのですが、アメリカや韓国の教会からは、多くの若いクリスチャン青年が、インターンもしくは短期宣教者として、数か月単位でA国のような宣教地に来ています。その中には海外宣教を志す人もいて、実際に海外の教会でお手伝いをする中で、多くのことを見聞きし、学んでいるようです。その経験は決して無駄にはならないでしょう。

 いつか日本でも、このような宣教インターンをサポートできるような制度、もしくは短期宣教者が遣わされるような制度ができればいいのではと思っています。

すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。(伝道者の書3:1)

 

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宣記3【序】牧師家庭に生まれて

 学生時代にA国への志が与えられ、実際にA国に行く機会もありましたが、その後、様々なことの中で、私の心は徐々に神様から離れるようになります。今から振り返っても、決して楽しい話ではありませんが、私自身の信仰歴も含めそのいきさつを。

①安定を求める中で

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 私は牧師家庭の長男として生まれ、教会の中で育ちました。両親と共に、教会の方々との交わりの中で育てられたと言ってもいいかもしれません。牧師住居が教会の2階でしたので、自分にとっては教会堂イコール自宅でした。いつも日曜になると、自宅に人が集まってくるという印象でした。

 親が牧師であり自宅が教会という環境は、学校に行くとクラスメートからは変わっていると見られましたが、生まれた時からそのような環境でしたから、自分にとってはそれが普通だと感じていました。ただ、登校時に親が教会学校のチラシを学校の門の前で配っていた時には、よく友達からはそのことをからかわれ、クラスに入ると自分の机の上にチラシが全部置かれていたこともありました。その時はさすがに複雑な思いをしたことを覚えています。


 その環境の中で、幼い時に信仰を持ち、中学生の時に自分の意志でバプテスマを受けました。そして、中学校を卒業した春に、いくつかの教会が集まったキャンプに参加し、そこで自分自身を神様におゆだねする決意をしました。(その後、その決意からふらついてしまうことになりますが…。)

 よくクリスチャン2世の信仰というものは、階段をぽんぽんと飛んで上がるような急激な変化があるというよりも、坂道をじわじわと時間をかけて上がっていくようなものと耳にしたことがありますが、自分の歩みを振り返っても、その表現に近いものを感じます。


 そして学生時代、既に書きましたようにA国に対する強い思いが与えられ、前回記したようにA国に実際に行く機会も与えられたわけですが、実際に現実が見えてくるにつれて、その道に進むことに対しての不安と恐れが正直あったように思います。

 示された道なのですが、その道を選びきれない。現実を見るならば、自分にはそんな働きはできないことは明確に思えました。そのような漠然とした一見不安定に思える道よりも、この世の中にあるもっと魅力的な道を探し求めている自分がいました。


 今から振り返るならば、幼い時より牧師の子供として育ち、様々なことを味わい、体験してきた中で、無意識のうちに心のどこかで、社会的な「安定」というものを求めていたように思います。就職して、誰の力も借りずに自分の手で、自分の力で生きていきたい。自分が第一。今から考えればただの自分勝手で傲慢な思い上がりなのですが、そのような考えが徐々に強くなっていきました。そしてそれは次第に、神様から心が離れていくことにつながっていきました。

②就職する中で

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 技術系の学校を卒業し、就職をして公共事業関連の仕事を始めました。勤務地は実家から数百キロも遠く離れた場所で、職員寮に住むこととなり、生まれて初めて自宅=教会という場所から離れることになりました。今まで教会の2階に住んでいましたから、日曜に教会に行かないという選択肢はなかったのですが、一人暮らしを始めてから、教会に行っても行かなくても自分次第という「自由」を手にしました。それでも自分の意志で教会に行くのかということを問われている気がしました。 

 また、仕事自体は自分の学んできた専門分野でしたから、最初は楽しく満足の日々でした。毎月給料がはいってきて、自分の手で得たお金を自分の思いのままに使えることも、今までの生活では味わったことのない「安定」でした。


 しかしそのような歩みの中で、段々と心の中にぽっかりと穴のようなものが開いていることに気づきはじめました。自分の思うがままの人生を歩んでいるはずなのに、なぜ心が虚しいのか。その虚しさを否定しようと思って、仕事に打ち込んだり、好き勝手なことをしましたが、心の中の虚しさはどんどんと大きくなり、ごまかし通すことはできなくなりました。

 やがてそのような思い悩みは心身にも影響が出始めました。そのような中で罹患した「突発性難聴」を通しても、自分の生き方を探られる機会ともなりました。今までまるで自分自身が人生の主であるかのように振舞っていながら、実はいかに自分が無力で弱い者であるかということを苦しさの中で痛いほど悟ることとなりました。

 もはやその時点で自分にできることは、その虚しさと、自分の罪を素直に認めることだけでした。そしてなおもそのような自分を愛してくださっているお方にもう一度向き合うことでした。

 キリストの十字架は、そんな自分のためであることを再発見しました。幼い頃から信仰を持ち、神に全てをおゆだねしていたにも関わらず、自我のままに、神から離れ、罪の中を歩んでいたこと。祈りの中で、神の前に今までの歩みを全て悔い改めました。この背後に、祈ってくださっていた方の祈りがあったことと思い、そのことを改めて感謝します。

 またその当時、故郷から遠く離れ就職をした場所で、出席していた教会の牧師先生にも、多くの相談に乗って頂いたことは忘れません。就職という転機があったにせよ、親が牧師として仕えている教会から、一時的に別の教会に継続的に出席する機会があり、そこで客観的に自分自身の信仰を見つめなおせたこと。そして親ではない第三者の立場で率直な話を聞いて頂けたことは、信仰の転換点にあった私にとって大きな助けとなりました。ただ、これは決して一般論ではなく、私個人の体験談にすぎないことは付け加えさせていただきます。

③悔い改めと再度の決心

 その後、しばらくしてある説教者を通して聞いたメッセージは「5つのパンと2匹の魚」の説教でした。子供がもっていたわずかな物を、イエス様は何倍にも増やされ用いられたこと。私たちが持っているものも、わずかな物かもしれないが、それをささげるときに、イエス様は用いてくださること。

 

 私は自分にはできないと思い、今まで神様から与えられた使命から一方的に逃げていたように感じました。そしてその中でいつの間にか心も神から離れていました。しかし、神様はそのような私さえもずっと幼い時から守り導き続けていてくださっていること、そしてもし従うならば、このような者さえも用いてくださること。その説教とみことばは私の背中を押してくれました。その説教の後で、「A国に行きます」ともういちど心新たに決心することができました。

 

 学生時代にA国への使命が与えられた後、長々と遠回りをしてしまったようですが、再び神様がその使命感を新たにしてくださったことは、ただただ神様のあわれみでしかありません。

 その後、職場の上司と話し合い、もうしばらくの間仕事を続けた上で、職場にとって一番影響がない時期に辞職をすることとなりました。そして、聖書を深く学ぶために神学校に入学しました。私の突然の方針転換にも関わらず、理解してくださった職場の上司や同僚の方々にも感謝しています。私がA国に遣わされた後、その時の職場の上司の一人が、一度行ってみたいということで、わざわざ日本からA国の私たちのもとを訪れてくださったこともあり、嬉しい出来事でした。

 

追記 自分にできることは何か

 後に宣教師という立場で、全国の教会を訪問させて頂く時に、いつも牧師家庭の子供たち(パスターズキッズ・PK)が個人的に気になりました。私が同じ立場だったからかもしれません。かつて私が幼い頃に多くの宣教師が訪問してきたときに、宿泊のために自宅の部屋がひとつなくなって、幼心にほんの少しの複雑な思いを感じていたからかもしれません。(今では微笑ましく懐かしい思い出のひとつです。)

 もし、少しでも牧師家庭の子供さんたちとお話しする機会があれば、自分の体験も踏まえて、いろいろな話を分かち合ってきました。その中で、全く同じではないですが、多くの人たちが似たような経験や体験をし、似たような悩みを持っていることに改めて気づきました。そして昔、私も同じように悩んでいた時に、キャンプなどで年上の同じ境遇の方々に率直な話を聞いてもらったこと、そのことによって励まされたことを思い出しました。

  何か自分にできることはないだろうかという思いの中で、同じような意識を持っている方々と協力しあって、私たちなりにできることを今まで考えて行ってきました。それは聖書にある通り「苦しみをともにしているように、慰めもともに」するためでした。一人ひとりにできることはわずかかもしれませんが、同じような経験をしている人たちが自分だけでなく周りにもいる。そのことが知れるだけでも、人は勇気づけられるのです。

 

 しかし、これは「牧師の子ども」に限ったことではありません。人によってケースは様々ですが、自分と同じような境遇の人たち、自分が抱えてきたものを分かりあえる人たち、当事者仲間を神様は必ず周りに置いて下さるのだと思います。私たちは神様にあって決して「一人ぼっち」ではありません。

 教会の交わり、合同のキャンプなど、神様が与えてくださるいろんな機会の中で、当事者同士が互いに顔と顔を合わせ、励まし合え、互いに祈れるような場が自然発生的に与えられたら、それはどんなに感謝なことだろうかと個人的に思っています。

あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めもともにしていることを、私たちは知っているからです。(Ⅱコリント1:7)

 

宣記2【序】学生時代の初渡航

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 1995年、それは19歳学生の春のことでした。1月に関西で大きな地震が起こり、3月には東京の地下鉄で大きな事件が起こって、日本の国が大きく揺れ動いた年。この年に、中学生の時からいつか行きたいと思っていたA国に初めて行くことができたのです。今思えば、この時の渡航も、将来のために神が置いてくださった布石のようなものでした。

 

①生まれて初めて乗る飛行機

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 それは生まれて初めて乗る飛行機でした。今でも飛行機の離陸時には多少の不安を感じるのですが、当時は初搭乗でしたから、どうしてこんな大きな鉄の塊が空を飛ぶのかと座席に座りながら真剣に考えたものです。飛行機自体が初めてですから、海外に行くのももちろん初めてでした。必死にアルバイトをして貯めたお金で取得した真新しいパスポートと航空券を手に、A国へ渡りました。海外の「か」の字も知らなかった当時学生の自分にとっては、見るもの聞くものすべてが新鮮で、衝撃的な体験でした。

 

 隣国を経由してA国に着き、飛行機のタラップを降りると、むっとした熱風が身を包みます。滑走路の遠くには牛がのんびりと歩いている姿が見えました。ここが夢にまで見たA国。そんな感動を覚えたのは一瞬。すぐに現実に引き戻されます。地面を歩いて平屋の空港内に入り、周りが壁に囲まれ、係官と2人きりになった入国審査場にて。係官は私が渡したパスポートを返すのをもったいぶりながら、こう言いました。

「1ドル!」

 ただでさえ初めての海外渡航で緊張している中で、最初係官に言われた意味が分からず、何かの手数料かなと思い、疑問なく係官に1ドルを払いました。係官はそれを受け取り、ささっとお金を胸のポケットへ。

「あっ、やられた。」

 今まで自分の中で特別だったA国。その国の玄関ともいえる空港にて、学生から堂々と賄賂を取る様子を見て、当惑しました。旅の最初から現実を突きつけられました。

 

②初めての外国への渡航

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 初めて直接目で見るA国の首都は、内戦が終結後、国連が介入して総選挙を経た後でしたが、まだまだ混沌としたところがありました。銃を持った兵士が街の中を警戒していました。現在は見られなくなったのですが、当時は3輪自転車のような乗り物がタクシー代わりとして客を乗せて街中を走っていました。まだ舗装した道路が少なく、街中を土埃が舞っていました。ある時、突然「パンパン」と乾いた音が耳に入り、「あの音はなに?」と近くにいた人に聞いたところ「銃声だよ」といとも簡単に答えが返ってきたことに驚きました。

 

  市場に行けば、内戦中に埋められた地雷の被害にあって片足がない人たちが大勢いました。私の行くところ、必死に松葉杖をついて追ってきて、私の前に帽子を差し出してきます。

「お金、お金。」

 今まで日本で経験してきた世界とは全く違う世界を垣間見て、愕然としました。この方々に私は何ができるのだろうか。A国の現実は自分の想像していたものをはるかに凌駕していました。滞在中に様々なことを見聞きし、多くのことを考えさせられました。

 

 A国には1週間あまり滞在しましたが、帰国が近づいたある日、急に腹痛と腹下しが止まらなくなりました。私はもともとお腹が強い方ではなく、その後もA国に宣教の視察などで短期に行った時には必ずお腹をこわし、A国に長期間住んでいる今もなお、田舎に行く時などは食あたりでお腹をこわすことがあるのですが、それでも今までの人生の中で、あんなにひどかった食あたりはありません。2日ぐらいは腹痛で宿のベッドから起き上がれませんでした。

 このままでは脱水症状になると思いました。ようやくベッドから起き上がれるようになって、ふらつきながら宿の食堂に行き、食欲も気力も全くなかったのですが、何か口に入れないとまずいという思いで、必死にミルクを注文したところ、缶詰牛乳がぽんと目の前に置かれて、力が抜けたことを思い出します。その後も体調不良が続き、やっとの思いで帰国したのでした。


 「何でそんなに嫌な思いばかりしたのに、A国が嫌いにならなかったの?」

 帰国して学校のクラスメートによく聞かれました。何でだろうか。自分でもよく分かりませんでした。でも、もう二度と行きたくないとは思わず、またいつかA国に行きたいと思えたのです。そして、A国にはかつてのフランス統治時代から続くカトリック教会以外に教会らしきものが、見当たらなかったことも気がかりでした。誰かがこの国に宣べ伝えに行かなければならないのではないかという思いは、それからも消えることはありませんでした。

 

③人生の中で敷かれる布石

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 A国から帰国してしばらくした後、私の通っていた学校が、海外からの留学生を受け入れることになりました。なんとA国からの留学生でした。学校で初めて彼に出会い、A国語で挨拶をしたら、彼は一瞬信じられない顔をしたのを覚えています。

「えっ?あなたはA国の言葉が話せるのですか?」

 そして緊張していた顔が笑顔に変わり、A国語でたくさん話しかけてきました。私はあわてて彼の話を遮って言いました。

「いや話せるのは挨拶だけです。この前、A国に行ってきたばかりなので。」

 彼と私は親友になり、それからも事ある度にいろんな話を卒業するまでしたことを覚えています。

 

 今までの歩みを振り返ると、神様は確かに布石のようなものをひとつ、またひとつと私の人生の上に敷いてくださっていたようにも思えます。その布石は「心の中の思い」や「予感」また「ビジョン」といえるかもしれませんし、何かの「出来事」や、ある人との「出会い」ともいえるかもしれません。私はその神様の思いや配慮を素直に受け入れることができない時期もあったのですが、思い返す度に、神様が私の人生の中の一時期、様々なことを通して、A国に行く方向へと導いてくださったことを感謝します。

 そして神様は今もなお、私の人生の上に、また一人ひとりのクリスチャンの人生の上に、これから先に歩むべき道のための布石を、ひとつまたひとつと置き続けてくださっているのだと思います。

 

 そのような意味で私たちの人生の歩みは、連続したひとつの線の上にあるようなものかもしれません。もちろん人生の中には、想像もしていなかった出来事も起こったり、突然のハプニングにより方向転換を迫られたりということもあるのですが、後になって、やはりそこにも神の御手と配慮が働いていたことを知ることができるのではないでしょうか。

 神は私たちの人生の先に起こることも全て前もって知っておられるのですから、日々の歩みの中において、神がなさることはどんな小さなことでも、必ず何かの意味があるのだと、そしていつか将来にその意味を見出すこともあれば、天国で教えてくださることもあるのではないかと私はそう思っています。

 

 今は見えないし分からない。でも後から振り返ってみて、あの時の出来事は、この時のためだったのだなと感謝をもって気づかされることがあります。「神の計画は緻密(ちみつ)なのですよ」と大病を患ったある牧師が語っておられた言葉が今でも心から離れません。神様が人生の上に恵みによって敷かれる布石を、敏感に気付く者でありたいです。

 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っているー主のことばー。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 エレミヤ書29:11 

  

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宣記1【序】なぜこの国に導かれたのか

このブログでは、A国における宣教の働きを少しづつまとめていますが、なぜA国と表記しているのかも含めて、このブログ自体の説明などは前回に書いていますので、ご覧ください。

 

 ここからは、【序:派遣前】としてA国に宣教に遣わされる前の記録を書いていきます。まず最初に、なぜ私はA国に思いが与えられ、導かれたのかということからです。

 
①中学生の時の衝撃

 

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 最初は中学校2年生の時でした。何気なくテレビを見ていたのですが、そのテレビ番組の中でA国の特集をしていました。そしてそのA国の映像が、突然私の心に飛び込んできたのです。その時はまだ内戦中だったA国。女性も銃を持って戦っている映像に、目が奪われました。そしてかつて大虐殺がその国に起こったという事実を知りました。

 私は日本で生まれ、育ち、この目で戦争というものを見たことはありません。しかし、世界に目を向ける時に、今この時も自分が経験したことのないような問題で苦しんでいる人たちがいるということを知ったのです。 

 それからというもの、A国のことが自分の心をとらえて離さなくなりました。中学校を卒業して、工学を勉強する学校に入りました。それなのに、暇さえあれば技術書ではなく、A国に関する本を読み漁っていました。読書感想文はいつもその国について書き、何度か校内報にも載りましたが、今思い返しても、当時から(今も)変わった生徒だったと思います。いつか人生の中で1回はA国に行ってみたい。そのような想いが強まっていきました。

 

②電車内で聖書を読んでいて

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 当時通っていた学校は自宅から離れていて、毎日電車で通学していました。いつも登校時、電車の中で時間があったので、座席に座れた時には幼い時から牧師家庭で育った習慣で聖書を読んでいました。別にそれは強いられてとかではなく、そうすることで心が落ち着いたのです。18歳のある日、その日は通学電車の中でローマ書を読んでいましたが、その時自分の心にひとつの聖句が迫ってきました。

「信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。(10:14)」

 

 この聖句が心に刺さった時に、私は中学生の時から心にあったA国をぱっと思い浮かべました。A国は内戦が終わってばかりで、まだ宣教師が少なく、教会も少ないだろう。A国に行って福音を伝える人が必要だと思いました。ひょっとしたら自分が…?しかし、自分じゃないとすぐに心の中で否定しました。

 自分は飛行機に乗ったことさえないし、もちろん海外に行ったこともない。言語の能力もないし、自信もない。もちろんいつか一度はA国に行ってみたいけれども、海外で働くなんて想像もできない。自分が行ったところで何もできませんと。心の中で必死に弁明しました。しかし、そのような思いに関わらず、その聖句を中心としたみことばによる諭しは続きました。

 誰かが行って宣べ伝えることが必要だ。そして行くべきは他の人ではなく、自分自身ではないか。そのことを神様は自分に望んでおられるのではないか。ローマ書の一連のみことばによって完全に心を強くつかまれたのです。 いつもの通学時間だったのですが、とても長い時間のように感じました。

 そして、ぱっと目を上げると、電車内で対面の座席に座っていた男性の呼んでいた新聞の文字が目に入りました。その新聞にははっきりと大きな文字で「A国」の名前が書いてあったのです。今思い返しても、忘れられない不思議な体験でした。 

 もしどなたかに、いつ海外宣教へ呼ばれましたかと問われるならば、私はこの時のこと、そして内面的に強い励ましを受け、宣教への志が与えられたこれらの聖書のみことばの話をします。個人的な出来事や体験というものは、決してみことばより上位に来るものではありませんが、この時の出来事は、私がその後も悩んだり迷う時に、いつも振り返って戻ることができる原点のようなものともなりました。

(ただしこの後に紆余曲折、様々な出来事があり、最終的に宣教に行く決心をしたのは、この時から数年後になります。)

 

③どのようにして導かれるのか

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 神様はどのようにしてA国に導かれたのですか?と聞かれることがあります。

 私自身も今まで多くの宣教師から話を聞きましたが、宣教師が10人いたら、10通りの導かれ方があるように思います。教会に来られた宣教師の報告や説教を通して、その国に強い重荷が与えられた方もいます。実際にその国を訪問して、志が与えられた方もいます。ふとした出来事を通して、その国に対して強い印象を受けた方もいます。神様は私達の固定観念をはるかにこえて、いろんな方法を通してその人を導いてくださるのでしょう。

 ある宣教師は志が与えられ、派遣教会による祈りの中である場所へ出かけていきます。ある宣教師は派遣教会のビジョンの中で、教会のビジョンに従い、ある場所へと出かけていきます。私の友人のフィリピン人宣教師は、フィリピンの母教会のビジョンのもとで、母教会の意向に従い、数年ごとに働きの場所が移っていました。それぞれ神様に人生をおゆだねした者として、神様はそれぞれの方法でみこころのままに人を導かれるのだと思います。

  大事なことは、まず神様に全てをおささげし、おゆだねする決心。そして遣わされる場所がどこであったとしても、神様が今この時、私自身をこの務めとこの場所に招き、導いてくださっているという強い思いであり使命感ではないかと私は思っています。その強い思いがあるならば、例え状況が悪くても神の時を「待つ」ことができます。例え逆境の中にあったとしても、神様の助けのもとで「耐える」ことができます。最初は迷いや恐れがあり、漠然とした中だったとしても、また100%の確信ではなかったとしても、志と信仰をもって一歩を踏み出し、道が開かれていく中で、より強い確信やはっきりしたビジョンが与えられていくこともあります。

 私にA国に対しての重荷が最初に与えられた中学生の時は、まだA国は内戦中でした。宣教師が入ることは不可能でした。その後、和平が成し遂げられ、外国人も入国することができるようになりました。しかし、実際に外国に行くためにはビザも必要です。外国の中には宣教の自由がなくビザが取れない国も多くあります。私は学生当時、全くそのようなことを気に留めていませんでした。

 数年後、仕事を辞めて神学校に入る時も「将来はA国に導かれています」と言って神学校に入りました。実際に将来宣教師としてA国に入れるのかどうか、その段階で見通しも何もありませんでした。ただ神様が導かれたのなら、神様は必ずその場所に行かせてくださるだろうと信じきっていたのです。今思い返しても、一本気でした。もう少し冷静な視点やバランスもあったら良かったとは思います。でも、そのA国への思いはその後も揺らぎませんでしたし、その若さ故の一本気も神様はお用いくださったのかもしれません。そして結果的に、門が開かれてA国に入国することができ、A国で10年以上に渡って、神と教会に仕えることができたのは、感謝しかありません。

  ただ、これは一つのケースであって、神様は私たちの思いや願いとは違う道に導かれることもあります。

「私の思いとしては、日本に宣教に行きたかったのです。でも、その門が開かれずにA国に来ることになりました。」

 そのように言われた韓国人宣教師にA国で出会ったことがあります。長年東アジアに行きたかったけれども、扉が閉ざされて日本に来られた西洋人宣教師もおられます。長く宣教地で仕えたかったが、ビザが更新されなかったり、国外退去を言い渡されたり、政情不安、健康の問題、家族のこと、やむを得ない理由の中で、宣教地を去り他国や母国に働きの場を移した宣教師も大勢います。それは何も特別なことではありません。また海外宣教師への志があったが、状況が許されず、母国で牧師になり、後に続く宣教師を育てた方もおられます。素晴らしい働きだと思います。

 パウロも本来行きたかったビティニア(使徒16:7)という場所に行くことができませんでした。しかし、パウロはそこで立ち止まらずに、道を探してなお前進していきました。結果的に主の摂理の中でマケドニアに行くことになり、そこで伝道するように導かれました。振り返ってみれば、それがパウロに対する神のご計画だったのです。

 その時ははっきり分からなくても、また自分の思いとは異なることがあったとしても、導かれるままに進んで行った後、自らの歩みを改めて振り返ってみる時に、これが神のみこころであり、神の導きだったのだなと後で分かることもあると思うのです。

 志は大切に、かつ神の導きには柔軟に従うことができればと思います。

人の心には多くの思いがある。

しかし、主の計画こそが実現する。(箴言19:21)

 

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宣記0:このブログについて

私は あなたのなさったすべてのことを思い巡らし 
あなたのみわざを 静かに考えます。(詩篇77:12)
(ネットにおける様々な事情の故に、一連の文章においては、私たちが遣わされた国を仮にA国と表記しますことをご了承ください。)
 

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 2007年に日本の地方にある教会から宣教師として私、そして家族がA国に遣わされて2022年で15年目を迎えます。そしてその年に宣教地から日本へ帰国することとなりました。今まで様々なことがありながらも、私たち家族がここまで歩むことができたのは、神様の守りと、派遣教会、宣教団体、祈りと支援をしてくださった教会、クリスチャン皆様の祈りと様々な形を通してのサポートがあってのことと心から感謝しています。
 
 私たちは、日本の諸教会の皆様からの祈りとサポートを頂いて、日本の教会から遣わされ、現地で働きをしてきました。その中で、10年以上に渡って現地で実際に行われてきたこと、経験し、身をもって味わってきたこと、考えてきたこと、また今までネット上の媒体などで投稿してきたことも含めて、改めて何かの形でまとめたいと思っていました。
 
 それは、私自身が過去を振り返る中で、客観的な視野で物事を見るためでもありますし、A国での働きのために祈ってくださった方々に感謝しつつ、今までの歩みを改めてお伝えするためでもあります。また海外宣教という働きが私の世代だけでなく、次の世代にも引き継がれていくためにも、少しでも私なりに歩んできた足跡が何かの参考になればという思いもありました。
 
 そこで、このブログを通して、A国における今までの働きを体験談のような形でまとめていけたらと思います。A国での宣教の記録ということで、【宣記】と勝手に造語し、見出しに書いています。
 
 宣教師と一言でいいましても十人十色でして、一人ひとりの確信は違いますし、信念も性格も様々です。個性豊かな人たちです。(ですから宣教師同士がひとところに集まると、楽しい話は尽きません。)また、遣わされた国の事情や背景も同じではありません。アジアとアフリカでは、生活から働きまで様々なことが異なるかと思います。(もちろん宣教の原理・原則は世界どこに行っても同じですが。)
 
 ですので、ここで書かれていることは、他の宣教師も同じことを思ったり、同じことをしたりするということではなく、あくまでもA国に遣わされた私個人としての思いとして、また私自身の性格や、信仰的な背景などにも影響されたひとつの見方として受け取って頂ければと思います。私なりの見方や考え方が中心ですので、偏っていたり、バランスに欠けることは多いかもしれません。もし、この記録を何かの参考にされる方がおられたら、他の宣教師の見方や意見もぜひ参考にされ、バランスを取られることをお勧めします。
 
 海外宣教というと、「遠い国のお話」のように思われるかもしれませんが、この記録を通して、少しでも多くの方が、海外での働きというものを身近に感じてくださり、より関心を持っていただけたら、嬉しく思います。
 
これからの流れとして、以下のように年代順に分けて記事にしていきます。

 

 序:A国に遣わされるまで(幼少期~A国への導き、神学校、デプテーションなど)

1期:A国に遣わされてから、首都での働き(2007年~2013年)

2期:A国の地方での働き(2013年~2019年)

3期:A国の首都での働き(2019年~2022年)

 

序から3期まで、全部で50回ほどの記事を不定期で投稿できればと思っています。気長にお付き合い頂けましたら感謝です。

 

なお、 聖書の言葉の引用は、新改訳2017版を用いています。

(2022年に追記しました。)

 

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