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南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記4【序】宣教師としての準備

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  海外宣教への導きの中で、その方向へ進むための準備に入りました。勤め先を退職した上で、聖書をより深く学ぶために、1998年に神学校に入学しました。今回は4回目の記事として、海外宣教にあたってのいくつかの準備がテーマです。

1.神学校での学び

 

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 私が入学した神学校では、計4年間を通じて聖書を体系的に学ぶことができました。幼い時から教会の中で育ってきたことを通し、感覚として得てきていることを、もう一度基本から再構築していく。また聖書から裏付けしていくという作業は、苦しくもあり、楽しいものでもあり、様々な発見もありました。

 4年間で教えられたことは多くありましたが、神学校とはある意味で、聖書の学び方を学ぶところであって、学校を卒業したからゴールではなく、卒業してからがスタートだと、そのことは私の胸に強く残っています。

 4年間に渡り、共に机を並べて聖書を学んだ同窓生、先生方との交わりからもたくさんのことを教えられました。私のA国での働きの土台は、神学校で学んだことにあります。母校に感謝しています。

 神学校で学ぶためには学費が必要ですが、就職して仕事していた時の蓄えは数年で底をつき、あとは長期休暇の間のアルバイトでつなぎました。工場、深夜、様々なアルバイトを通して、また様々な形を通して、時には不思議な方法も通して、必要を全てご存知の神様は、必要を必ず備えてくださるお方であることを、神学校時代の体験を通じて教えられました。

 神学校での学びと訓練は、座学だけでなく、人格や信仰、全ての面に及ぶということを身をもって知りました。その過程は卒業してからも、今までも、そしてこれからもずっと続いていくのだと思います。

 

2.神学校を卒業して

 

 神学校を卒業したのは2002年でした。その後結婚し、様々な準備や諸教会訪問の後に実際にA国に遣わされたのは2007年になりましたので、卒業して5年間が過ぎていました。

 海外に宣教師として行くのなら、なるべく若い方が良い。神学校を卒業したら、すぐに海外に行くべきだという意見も耳にします。これは正論だと思います。語学を学び自分のものとするためには、若ければ若い方が良いということは確かで、実際に海外の現場でそのことを実感します。また、異文化に適応するのも、若ければ若いほどより柔軟だと思います。

 以前、ある青年の方がまとまった期間、A国に滞在されたのですが、短期間で外国の環境に適応し、A国語も発音良く上手に話しているのを見て驚いたことを覚えています。私の周りのA国語を流暢に話す西洋人宣教師の多くは20代半ばぐらいで国を渡ってきているようです。一方、私の知る韓国人の宣教師たちは、40代から50代にかけて、子供が自立してからA国に渡ってこられる方々も多くいました。これはそれぞれのお国柄、またそれぞれの国の教会の背景もあるのかもしれません。

 アジア、特に中華圏では、一般的に年長者を敬い、年長者の言うことには耳を傾けるというような文化があります。中華の影響があるアジア圏宣教では、若年者よりもむしろ年長者だからこそできる働きもあるのだと思います。

 私は結果的には30歳を過ぎてから、宣教の働きのためにA国へ渡航することとなりましたが、異文化に入り適応していくために、一番気力が必要な最初の時期を30代で過ごせたのは、今から振り返れば良かったのかもしれません。(40代半ばぐらいから、急に健康面で不安が生じるようになりました…。)

 神学校を卒業して渡航まで5年かかったということに関しては、卒業後のしばらくの期間、日本の教会で奉仕するという導きもありましたので、私にとっては必要な期間でしたし、その期間の奉仕からも多くのことを教えられました。

 宣教地の門が開かれるまで、かなり長い年数に渡って、忍耐して待たれた宣教師もおられます。その宣教地への思いと耐え忍ばれた姿に尊敬します。時は神のもの。人それぞれに最善の神の時があると思うのです。

 

 3.宣教師としての準備

 宣教師としての導きを受けた時に、どのような準備をしたらよいのか。必要な準備は様々な面でたくさんありますので書ききれないのですが、ある先輩の宣教師からは、まず英語を学びなさいと言われたことが印象的に残っています。英語はどこの国に行くにも大事だからと。

 これは私個人の経験からもそう思います。英語はできて損はないですし、できるほどに現地で得られる情報量は増え、それによる選択肢や可能性も増えていきます。

 また、現地にてその国の言葉を学ぶ時に、多くの場合語学学校では、最初は教師と生徒共に英語を使って勉強します。マイナーな言語であればあるほど、教科書も辞書も英語で書かれたものしかありません。(もし現地語を学ぶための日本語で書かれた教科書、辞書があれば、それは素晴らしいことです。)

 そういうわけで現代世界の共通語である英語が話せると、より便利とはいえます。パウロが当時多くの場所で宣教の働きが可能だったのは、その当時の公用語であったギリシア語ができたからだという文章を読んだことがあり、なるほどと思ったことを思い出します。かくいう私も英語力には自信はなく、苦労しているのですが…その中である西洋人宣教師にこう言われたことがありました。

「私の母国語は英語、あなたの母国語は日本語。だから互いにとっての共通語であるA国語で話そう。」

 その提案を聞いて、なるほどそれはイーブンだと思いました。それからというもの、西洋人宣教師とはA国語で話をしています。現地のクリスチャンにとっても、外国人宣教師同士が現地の言葉で話していると、話している内容が分かるので、安心感があるようです。(日本で他国の宣教師同士が日本語で話している感じですね)

 

 他にも準備ということでは、他国に遣わされている宣教師が教会訪問で来られた時や、出会う機会などに、先輩の宣教師からいろんな話を個人的によく聞きました。その中でアドバイスを頂いたり、特に現地で大変だったこと、また失敗談なども個人的に聞くことができたのは貴重な時でした。また、海外に行くにあたっての実務的なこと、手続きのこと、デプテーションのことなど、私は先輩の宣教師から多くのことを教えて頂きましたし、実際に助けられたことを感謝しています。

 

 最後に、私自身は経験がないのですが、もし可能であれば、実際に海外の宣教地にインターンのような形で、まとまった期間行くことはとても有意義なことですし、それは一番の準備だと言えるかもしれません。

 実際にA国に行って気づいたのですが、アメリカや韓国の教会からは、多くの若いクリスチャン青年が、インターンもしくは短期宣教者として、数か月単位でA国のような宣教地に来ています。その中には海外宣教を志す人もいて、実際に海外の教会でお手伝いをする中で、多くのことを見聞きし、学んでいるようです。その経験は決して無駄にはならないでしょう。

 いつか日本でも、このような宣教インターンをサポートできるような制度、もしくは短期宣教者が遣わされるような制度ができればいいのではと思っています。

すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。(伝道者の書3:1)

 

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