南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記10【序】デプテーション②

 宣教地に実際に渡る前に、日本の各教会を訪れて宣教の働きの紹介を行うデプテーション(教会訪問)に関する記事の続きです。

 前回の記事はこちらから 

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1.祈ること・祈られること

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 1年半に渡ったデプテーション。私にとっては初めて訪問する教会、初めてお会いする方々ばかりで、緊張の連続でしたが、どの教会も温かく私達家族を迎えてくださり、大変嬉しくまた励まされたことを覚えています。礼拝や集会の前日などに、早めに教会に行かせて頂く時には、教会の牧師先生ご家族をはじめ教会の方とお話しする機会も多くあり、とても元気づけられました。

 訪問した教会の牧師先生や伝道者の先生方からは、宣教に対するアドバイスをたくさん頂きました。その後のA国での働きにあたって、この時に頂いたアドバイスには何度も助けられました。既に天に召されたある先生に言われた「宣教地に行ったら、信仰に関する本を1か月に1冊は読んだ方が良い」という具体的なアドバイスは今でも心に残っています。時に孤独にも思える海外という環境の中で、身体面だけでなく信仰面での健康を保つことの重要性を教えられた言葉でした。

 また集会後は、教会の方々との顔と顔を合わせてのひとときを通して、そして温かい言葉を通して、祈られる恵みを強く実感することができました。ある方はA国に関する新聞の記事の切り抜きを渡してくださいました。またある方はA国に関する映画を見ていてくださったり、またある教会では集会後にA国料理やA国のデザートやお菓子を作ってみなで一緒に頂くこともありました。ひとつひとつのことを通して、温かい気持ちと励ましをいただきました。

 ある宣教師がこのように話していたのを思い出します。

 「いつも母国で祈られていると思えることは力になります。

 かつてデプテーションなどで訪問した教会の方々が、海外宣教のために祈ってくださっていると知ることは、宣教地で孤独な思いになる時にも、つらい出来事がある時にも、遠く離れた母国の教会を、そして「祈っています」という言葉を思い返すごとに、元気が与えられました。

 これもある宣教師から聞いた話です。その宣教師が宣教地にあって、悩み苦しんでいた、ちょうどその時に、母国の一人のクリスチャンからメールが届いたそうです。そしてこのような内容が書かれていたと。

「私は、なぜか分からないけれども、いまあなたのために祈らなければならないという思いになりました。あなたのために祈っています。」

 その宣教師はその一通のメールにとても励まされたと語っていました。そのメールの送られてきた不思議なタイミング。そして母国で祈られているという事実を通して。母国と外国とどんなに距離があろうとも、祈りに距離は関係ないのです。神様は確かに私達の祈りを聞いてくださるのです。そして私達の祈りを用いてくださり、祈りを通して働いてくださるのです。

  パウロはⅠテサロニケ書の中で、「祈っています(3:10)」そして「祈ってください(5:25)」と祈りによる関係を記しています。日本から海外宣教のために祈られてきた恵みを感謝しつつ、日本の教会の上に続けて祝福があるように祈っています。


2.遣わすこと・遣わされること

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 ある訪問した教会で、礼拝後に一本の長いロープの端を手渡されました。そして教会のメンバーの一人一人がそのロープを手にとり、一つの輪になって共に祈る時がありました。この「ミッションロープ」はとても心に印象的に残っています。遣わすこと、そして遣わされることを象徴的に示しているように思えたのです。

 遣わす者も、遣わされる者も、神様にあってそれぞれが大きな務めであり、使命であること。そのどちらが欠けても宣教活動はできないこと。宣教の働きは、多くのクリスチャンの方々の祈りと支えの中で、バラバラではなく一つのつながりの中で行われること。そのことをこの一本のロープは教えてくれました。

  思い返すと1年半に渡ったデプテーションは、多くの方々の手助けやサポートにより最後まで続けることができました。ある時には、遠距離を移動する私たちのために、泊まる場所や生活に必要なものを快く提供してくださったり、また様々な形を通して支えてくださったり、色々な出来事があった中で、本当に多くの方々に祈られ助けられた1年半でした。今、当時を思い出しながら、未熟さ故に数えきれない失礼やご迷惑をおかけしたことも多かったのではないかと恐縮しつつ、当時お世話になった皆様に感謝の思いを改めてお伝えできればと思います。

 宣教は一人で行うものではなく、多くの方々の祈りと支えがあって、なされるものであるということを実際に宣教地に行く前に、身をもって実感することができるのは、デプテーションの恵みかと思います。

「遠距離の移動は大変ではないですか?」とよく聞かれましたが、私達にとっては各地の教会を訪問できるのはただただ神からの恵みで、各地の訪問を通して多くの祝福を頂きました。私も家族も多くのことを教えられた1年半でした。当時、私達家族を受け入れてくださった教会皆様に心より感謝します。

  

3.宣教のバトン

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  後日、ある本を読んでいた時に、「自分は海外で働かれている人の証しを聞く機会がそんなになかった。聞く機会がなかったので、意識が高まらなかった。」「海外の宣教師が、自分の教会に訪問してきて、海外宣教の話をしたことによって、海外の宣教を思うようになった」と書かれていた証しがありました。

 私も牧師家庭で育つ中で、様々な場所に出ていかれる国内・国外宣教師の先生たちが教会(兼自宅)にデプテーションや宣教報告のために来訪されたことを覚えています。当時の幼い私にとって、宣教師と私たち家族との食事のひととき、また礼拝や集会の中で聞く海外の話などは、とても目新しく、また印象深く感じていました。

 今から考えると、幼い時から知らず知らずのうちに、宣教師の先生たちを通して影響を受けていたのだと思います。全ては神様の導きですが、その時に受けた影響は、今の歩みにも関連しているのでしょう。

 2005年からの私達家族のデプテーションの中で、私が幼い時に教会を訪問してきてくださった何人もの先生方に、今度はこちらから訪問する形でお会いすることができました。また海外宣教師の先生方には個人的にお会いして話をする機会もありました。どの先生もかつての教会訪問の思い出を懐かしそうに語ってくださいました。その話を聞きながら、先生方が私の教会を訪れてくださったからこそ、そして国内・海外を含めた宣教という道筋を見せてくださったからこそ、今の私があり、今の働きがあるということを改めて思わされました。

 今までの宣教の歩みの中で、宣教開始前のデプテーション、またその後の宣教報告などで、全国各地の教会を訪問する機会が与えられてきました。その中で、過去の私がそうであったように、ひょっとしたらどこかの教会で、将来の宣教師に出会っていたのかもしれないと思っています。海外に対して視野が広がり、思いが深まることに少しでもつながったのならば、どんなに嬉しいことかと思っています。海外への志やビジョンというバトンを受けた者として、今度はこのバトンを次の世代の方々に何らかの形でお渡しすることができたら感謝です。