南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記11【1期】単身での出発

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  2007年に入り、様々な渡航準備も整い、1年半に渡ったデピュテーションも終わりを迎え、ようやくA国への出発が見込めるようになりました。長男が生まれる時期とも重なりましたので、最初の数か月は私が単身でA国に渡り、海外での生活と働きの基盤を整えた上で家族を迎えることにしました。
(今までの【序】章を終えて、ここからは【1期】の章として話を進めていきます。)

 

1.出発の時

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 地の教会訪問のスケジュールもほぼ終わり、A国への出発を控えた2007年の2月に派遣教会で按手式が行われました。厳かな雰囲気の中での諮問および按手は、これから伝道者として遣わされること、そして与えられた使命の重みを今一度感じさせられる時でした。

 その後、実際に渡航する手続きと準備に入りました。必要な予防接種、また免許センターで国際運転免許証の取得、今まで住んでいた住まいの退去、国外転出届の役所への提出など。今までのような短期の滞在ではなく、海外に実際に住むということが初めての中で、色々と手探りの中での手続きでした。

 その当時A国に入国するためのビザは、到着時に空港内で取得し、入国後に延長の手続きをすれば良いとのことでしたので、ビザに関しては問題はありませんでした。当時A国は外国人にとって入りやすい国のひとつでした。(多くの宣教師は、遣わされる国の入国ビザを取得するために、大変な苦労があると聞いています。現在の世界情勢の中で、最近はどの国もビザ取得および延長に関しては厳格化の流れにあります。その後、A国もビザ取得の方法は変更されています。)

 様々なことの中で、4月に渡航することが決まりました。出産のために実家に戻っていた妻の出産と長男の誕生を見届けて、4月10日に九州の国際空港から日本を発ち、第3国を経由してA国に入国しました。

 

2.単身での渡航

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 外で働きをする場合、まず住むための家を探さなくてはなりません。また、生活していくための様々な道具や器具などが必要ですが、母国から生活用品や荷物などを遠く離れた国に持って行くのは大変なことです。国際輸送会社にお願いし、コンテナなどを用いて一気に家財道具を母国から運ぶ人も多いと聞きます。
 
 同じ国の中だとしても、引っ越しなどによって住む地域や場所、また生活環境が大きく変わることはストレスにつながります。まして海外に移住する場合、特に家族、子供達のことを考えるならば、母国で使い慣れている家財道具などをそのまま外国に持っていくことがよりベターと考える人もいますし、その心情はよく理解できます。ただ、それには費用も時間もかかってしまいます。母国から何を持っていくかの取捨選択は、特に家族で渡航する場合は結構大事なことです。
 
 私達は結婚した当初から、海外での働きが念頭にありましたので、あまり家財道具などを持っていませんでした。A国で生活するために必要なものは、日本から持っていかず、A国で揃えようと思っていました。
 

 その中で、あることを通して、A国で長年働きをされてきた宣教師家族と知り合いました。私が4月にA国に単身渡航して生活と働きを始めることをお伝えすると、ちょうどその先生ご家族がA国での働きを終え、母国に帰国されるタイミングが同じ4月ということが分かり、先生ご家族が住んでおられた住まいに、私がそのまま入居し、使っておられた電化製品なども含め家財道具一式をそのまま譲って頂けることになりました。

 この話、帰国される宣教師には喜ばれ、また私にとっても、A国に入国した時から、生活に必要なものが既に備えられている状況で、これ以上ない感謝なことでした。外国で言葉も全く分からない中で、住む家を探して借り、一から生活基盤を整えていくのは大変な労力かと思います。「主の山には備えがある」という聖書のことばを思い返しました。今思い返しても、神様の不思議な備えには感謝しかありません。

 

3.単身での生活

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 速、海外での単身生活が始まりました。最初は、毎日刺激が多い日々でした。しばらく食事は外食でしたが、近所の食堂でメニューを見ても現地の言葉は分からず、何が書かれているか見当もつきません。

 最初の頃はメニューを指差しして適当なものを注文し、運ばれてきてはじめて自分が注文した料理を知りました。しかも一人では食べきれない量だったりと、なかなか思うように注文できず苦戦しました。次第に、食材を買って自炊することが増えましたが、かつて就職して一人暮らしをした経験が、後に海外で生かされる日がくるとは夢にも思いませんでした。

 しばらくして、A国の言語を学ぶための語学学校に行き始めました。言葉が全く分からない最初のうちは、学校の先生ともコミュニケーションが十分に取れず、苦労しました。「あの日本人はいったい何を言っているのか分からない」と先生同士の冗談が耳に入り、落ち込むこともありました。

 現地の教会の集会に行っても、メッセージも何も分からず、賛美も歌えず、教会の人とも全くコミュニケーションが取れず、今思い返してもこの時は本当につらかったです。宣教師として来ているのに、現地の教会に行くことを苦痛に思っていることに、愕然としました。その状況をなかなか受け入れられずにいました。

 そのうち、毎朝が憂うつになり、夕方近くになると気が晴れてくることの繰り返しでした。このパターンを何とか乗り越えたいと思いましたが、なかなかきっかけが見つかりませんでした。

 日本にいる妻子と、毎晩ネットを使って話をするのが、唯一リラックスする時でした。かつての時代の宣教師は、国際電話の費用が高いため、日本に電話をかけるときには、事前に話すことを箇条書きにまとめ、短い時間で要件のみ手短に話したと聞いたことがあります。その時に比べて、2007年にはまだ今のようなスマートフォンはありませんでしたが、パソコンを通じて会話をすることはできました。費用も安価で技術の進歩にはとても助けられました。

 また、このような時に、ある宣教師の方とお話できたのは幸いでした。

「1年目は何もできなくてしんどいでしょう。言葉もできずに、一体何をするために自分はこの国に来ているんだろうと思うでしょう。」

 まさにその時、自分の思い悩んでいたことを口にされ、目が潤みました。そしてそれは、自分だけでなく、多くの宣教師が通る道だと。決して無理をせずに、できることをしていったら良いとのアドバイスを受け止めました。

 そして、1日に何か1つでも新しいことをしようと「小さなチャレンジ」を心掛けました。私書箱の手続きをしたり、電話の手続きをしたり、ローカルの市場に買い物に行ったり。決して多くのことではなく、無理をせずに、何か1つでもその日のうちにできたら、それで良くやったと自分自身に言い聞かせました。結果的にしんどくて何もできなくても、自分を責めることはしないようにしました。そのようにしながら、少しづつですが、神様の助けの中で前に進んでいくことができたことを思い出します。

 後になって、外国に住むなど新しい文化に入る時に、適応していく段階で多くの人は同じパターンを経験することを本などで知りました。

 ①ハネムーン期…新しい環境で毎日刺激を受ける

 ②ショック期…様々な違いの中で失望が増える

 ③適応開始期…徐々に文化の違いに慣れる

 ④適応期…文化の違いを理解し、違いに寛容になれる

 以上のように表現されていましたが、まさにこの時の私の経験した状況は①と②だったのだと思います。今から振り返れば、そういう時期もあったよねと思えるのですが、渡航したばかりで、様々なことが狭い視野でしか見えなかったその時は、自分にとってつらい時期でした。その中でも、「耐えられない試練にあわせることはなさいません」という聖書のことば。そして狭い視野に陥っていた自分に、状況を客観的に大きな視野で見ることを教えてくれた第3者の存在には、とても助けられたと思っています。