南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記12【1期】言葉の学び

 A国に4月に到着してまもなく、語学学校にて言葉の学びを始めました。どの国の言語学習も同じかと思いますが、新しく学ぶA国語の学習は、私にとって日々苦労の連続でした。

1.驚かれる日本人

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 A国で言葉を学ぶためには、いろんな学校がありますが、私が入った学校のクラスには、全部で15人ほどいました。西洋人はわずか、そしてほとんどは韓国人。それも宣教師でした。クラスの最初にそれぞれの自己紹介の時間がありましたので、私は日本人ですと言い、そして宣教師としてA国に来ていますと付け加えると、それを聞いていた多くの韓国人の宣教師たちが大変驚いた様子でした。

 クラスが終わるなり、数名が私のもとにきて口々に言います。「あなたは、日本からの宣教師なのですか?」「日本は教会が少ないと聞いていましたが…。私、本当は日本に宣教に行きたかったのですが、門が開かれずにA国に来たのです。」「すみません、私と一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?」
 A国で初めて出会う日本人の宣教師は、彼らにとってまるで珍しい存在のようでした。後に韓国人の宣教師たちと親しくなり、多くのことを知りました。

 韓国は国内に教会が多いので、国内で教会を新しく開拓するよりも海外に目を向けていること。そして当時、A国には多くの宣教師が韓国から遣わされてきていたこと。

 特に私が個人的に親しくなった宣教師は、壮年世代になって韓国からA国に遣わされていました。子供が独立した後に、宣教師となって外国に渡ってきているのです。時間をかけながら勉強されている様子が印象的でした。

 「言葉の勉強は難しいですね」といつもその方は言っていました。「私は英語もあまり話せないし、A国語もまだまだだし、それにA国語をずっと勉強していたら、母国語もスムーズに話せなくなるし、いったい私は何人なのかと思いますよ(笑)」

 必死に語学を習得しようと努めている彼らの姿を見て、私も励まされる思いでした。

 

 2.苦労する発音


現地語クラス

 A国語の勉強を始めてみて、すぐに壁にぶつかりました。それはA国語の発音のあまりの多さにでした。音が比較的に少ないと言われている日本語を母語とする日本人にとって、発音の多い言葉を勉強するのは簡単ではありません。

 今までの人生の中で、口から一度も出したことのない音を出さないといけないのです。まず音に慣れなければ、微妙な音の違いが聞き取れません。日本語では「う」としか表現できない言葉でも、唇の形を変えながら出す、いくつもの「う」があります。日本語では「か」としか表現できない言葉でも、息を出す「か」と息を出さない「か」があります。

 文字習得に関しては、ひらがなやカタカナ、漢字というかなりの文字を使いこなす日本人にとっては有利かもしれません。しかし、発音だけはかなり苦戦しました。

 ある宣教師に言われたことを思い出します。「A国語は1に発音、2に発音、3と4がなくて5に発音です。」また他の宣教師からもこのように言われました。「発音は最初が肝心です。最初に変な癖がつくと、後から修正するのは至難の業です。」

 ある時、市場でお手洗いに行きたくなり、近くの人に「トイレはどこですか?」と現地語で聞きました。その人は私の顔をじっと見て言いました。「ごめんなさい。私、外国語が分からないのよ。」いや、自分は現地語で話しかけているのだけど…。内心がっかりした思いでした。発音が悪くて相手に伝わらないというつらい体験はこの後も何度も経験しました。

 自分がどんなに頑張ってもなかなか習得できない発音を、軽々と習得するクラスメートたちを横目で見ながら、どれほど羨ましく思ったか。語学の賜物は本当にあるのだなと、他人を見てよく思いました。ある本にこのようなことが書いてあったのを思い出します。「外国語を学ぶ時は、たくさん話して、たくさん笑われなさい。変なプライドは捨てなさい。」

 変な発音で笑われる経験というものは、できればしたくないものです。「あなたは発音が悪い。何を言っているのか分からない。」と目の前ではっきり言われるのは正直つらいものです。でもそれが怖くて人前で話さなくなると悪循環です。だから笑われることを怖がらない。そして、逆に失敗した自分自身を良い意味で笑えることが大事かと思っています。

 もしも宣教師同士がひとところに集まったら、外国語の失敗の体験談だけで大変盛り上がることがよくあります。結局、どの宣教師も皆同じ経験をしてきているのです。失敗しても落ち込まずに、そしてあきらめずに前に進むことが大切だと思います。

 私はA国語の習得を始めてもう10年以上経ちますが、正直今でも発音には苦労する時があり、笑われることもあります。もちろん帰国した今でもなお上達を心掛けていますし、語学の習得には終わりはありません。

 しかし、いつも忘れずにいたことは、私は言葉を学ぶことが目的でA国で働きをしたのではないということです。宣教師として、福音とみことばを伝えることが私の目的であり使命なのであって、そのための手段のひとつが語学です。このことを混同しないように気をつけました。

 言葉はコミュニケーションのための道具のひとつであって、言語力とコミュニケーション力はまた異なるようにも感じています。言語という良い道具をいつも手にすることができるように、日々磨きますが、道具は使うためにあるものですから、良い道具を手にして満足して終わりではありません。もし言語という手持ちの道具が十分に使えない時があれば、他の違う道具を考えて使うようにしています。

3.現地語を学ぶ意味とは

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 A国で働く世界各国からの宣教師の中には、長年働いている宣教師の中でも、あえてA国語を学ばずに英語のみで働きをする宣教師もいます。その場合、説教をする時は通訳をつけます。A国には英語に関心がある若い人たちも多く、外国人宣教師と英語でコミュニケーションを取るのは、魅力があるようです。現地語を習得するためには、どうしても年単位での時間がかかります。働きの内容にもよりますが、あえて現地語を学ばすに、英語のみですぐに宣教の働きを始めるというのは、一つの方法だとも思います。その中で働きを続けている宣教師を何人も知っています。

 ただ、現地語が分かれば分かるほど、より働きの幅が広がるということを身をもって体験してきました。外国人と英語で話す時は身構えていた方々が、現地語を話せるとなるとホッとした表情で、本音を語ってくることもよくあります。受け入れが全く違うのです。かつて日本で長年働いておられるアメリカ人宣教師と話した時にこのように言われました。

「現地語を学んだら、よりその人の心の深いところに入っていけます。」

 その言葉を今でも思い出します。現地語を学び、現地語を話すということを通して、その国の人と同じ土俵に立てるということです。その国の人々の思考や考え方というものが、その国の言語を通しておぼろげに見えてきます。言葉と文化は切り離せないからです。パウロも様々な場所で働きができたのは、いくつかの言語を話すことができたからではないかと思います。

 言語学習には多くの時間もかかり、また苦労しなければなりません。習得のためには、数多くの失敗もあり、時に赤面するような恥ずかしい思いもしなければなりません。何年経っても言語を通して、失敗することは多いのです。しかし、そうして犠牲を払いながら習得した言語を、神様は働きの中で必ず用いてくださると信じています。