南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記6【序】視察のための渡航①

 神学校を卒業して、ある地方の教会で約2年間に渡って奉仕をしました。その後、母教会に戻り、A国に行く準備を本格的に始めていきます。

 多くの宣教師は、実際に海外に渡る前に諸教会への訪問を行いますが、その訪問を始める前に、A国に宣教視察のために行きました。2004年のことでした。1995年の学生時代に初めてA国に行ってから既に9年が経っていました。

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 数年ぶりに渡ったA国。まるで違う国にやって来たかのように、多くの物事が変化していました。空港はきれいになり、街は建物も増え、様変わりしていました。そして9年前にはあまり見かけなかった教会も増えていました。それとともに、街の中を裸足でかけまわる子供たち、客を乗せて運ぶ三輪自転車タクシーなどの懐かしい姿。それらは年月を経ても変わっていませんでした。

 知人のつてを頼って、A国で働いている外国人宣教師と知り合い、その方の紹介でA国のいくつかの現地教会の活動や様々な様子を見てまわることができました。日本の教会とは違う多くのことに驚かされる数日間でした。

 

1.現地の教会

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 まず、当時のA国の首都にある教会を訪問して驚いたのは、たくさんの子供たち、そして青年たちの姿でした。どの教会も子供たちであふれていました。また集会には多くの青年たちが出席していました。比較的に壮年の姿が少ないように見えましたが、これにはいろんな事情があることを後に知ります。しかし、日本の教会から来た者として、A国の教会のこのような光景には、大変驚かされたことを覚えています。

  また印象深かったのは、訪れたいくつかの教会には、日本で見られるような様々な設備がほとんどないことでした。オルガンやピアノなどの楽器、またコピー機印刷機などの機器もない教会もありました。週報などもありませんでした。

 ある教会はトタン屋根だけで壁がなく、半分野外のような場所で礼拝をおこなっていました。またある教会の賛美はギターを使ったり、楽器がないためアカペラでしていました。屋根がない教会の集会で、空を見上げながら賛美をするのはとても新鮮でした。

 特別伝道集会のような定期的なプログラムなどもないようでしたが、それでも青年たちは教会に友人を積極的に誘い、新しい方々が教会に加えられていくのです。

 この時に私が見たA国の教会は、一言でいうならば「シンプルな教会」でした。物はなく、設備もなく、丈夫な建物もない。しかし、多くの方々は礼拝をするためにひとところに集まり、そして喜んで神様を礼拝している姿がそこにはありました。その光景が記憶に残っています。もちろん教会は様々な機器や設備があれば、それだけ活動の手段や可能性も増えることでしょう。またメンバーの人数も増し加われば、それに合わせてスタイルを変えていくことも必要でしょう。それらは大事なことだと思います。

 ただ、この時に目にしたA国の教会の姿に、何か教会の原点のようなものを感じたことを、今でも思い出すのです。

 

2.外国人であること

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 ある教会で集会に出席した後、一人の青年から声をかけられました。「私はずっと日本から宣教師が来ることを祈り願ってきました。だから会えて嬉しいです。」その言葉が私の心の中から離れませんでした。

 「日本からの伝道者」「日本人であること」今まであまり意識してこなかったこれらのフレーズ。この時にA国に行って、強く考えさせられたのです。

 それからも滞在中に、A国で働いている外国人宣教師たちに出会い、話す機会がありましたが、あることを共通して言われました。「A国での日本のイメージはとても良い。」「あなたは日本人なのだから、日本人としてこの国でできることはいろいろとあると思うよ。」訪問した教会でも、日本人ということに注目されている気がしました。

 A国で日本人クリスチャンは珍しかったこともあるかと思いますが、その点を強調されたのは、私にとって意外なことでした。日本で生まれ育って、今まであまり日本人であるということを私自身強く意識したことなく過ごしてきたのですが、日本を一歩出ると、自分は外国人であるということに改めて気づかされるのです。そして、その中でも自分が「何人」であるか、自分自身のアイデンティティについて意識するようになるのです。

 「A国で日本人としてできる働きがある」という視点。当時A国にあって日本人は歓迎され、受け入れられやすかったという事実。その背景には、長年に渡る日本のA国に対する多くの支援などの理由があってのこと。そのような恩恵があったことを感謝しています。

 しかしそれと同時に、現地であまりにも日本人であることを強調されることに少しの戸惑いも感じていました。私は福音と聖書のことばを伝えるためにA国に来たいと思っているのであって、日本人として日本的なものを伝えに来たいと思っているのではないという戸惑いでした。私の思いと周りの目とのギャップを感じたのです。

 このことについて、他国に遣わされている日本人の宣教師たちと話したことがあります。ある宣教師はこのように話してくれました。

「私は、遣わされた国の人になりきろうと思ったことがある。そして今でもできる限りそうしているつもりだ。思いは大事だから。ただ、それには限界はある。結局のところ、何をしても周囲からは外国人として見られる。100%現地の人にはなりきれない。その事実は事実として受け入れないといけない。でも、その中で、外国人である日本人にしかできない働きがあり、日本人宣教師ならではの働きがあると思う。」

 その宣教師の言葉、そしてその宣教師の思いは、今でも私の心に残っています。この言葉を聞いてからもう15年以上経ちますが、それからの私自身の体験を振り返った上でも、その通りだなと思わされています。

  聖書に出てくるパウロはどうだったのだろうかと考えさせられます。彼はユダヤ人でしたが、ある時は福音のために自分がユダヤ人であることを強調しました。福音宣教のために彼が持っていたローマ市民権を用いました。そして、ある時は福音のためにあえて「律法をもたない人」のようにもなりました。

 ユダヤ人というこの世界におけるルーツやアイデンティティという枠を持ちながらも、パウロは彼の思いと行動の中で、その枠から自由にされ、また解放されていたようにも思えます。解放されているからこそ、ある時は自身のアイデンティティを強調することもでき、ある時はそれをあえて抑制することもできた。そのすべては福音のために。

 結局のところ、クリスチャンはこの世界における人種や国籍という違いを超え「天国人」として、キリストにあってひとつの国籍の者とされている。そして、福音にあって、私たちはそのような違いから解放され自由にされている。その一方で、神様は私たち一人一人に摂理を通して、この世界の中での「国籍」であり「アイデンティティ」を与えてくださっている。それは、神のご計画の中で意味と目的があり、神様はそれらを用いられることもある。

 これは今の私の考えです。ただ、現実問題として、なかなかパウロのようにこの世界の枠組みから解放されないんですよね。どうしても引きずってしまいます。「日本人としての働き」については、また書く時があると思います。

  

 少し長くなったので、視察の続きは次回に。

 

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。

Ⅰコリント9:19

 

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