南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記8【序】宣教と宣教団体

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 A国への宣教視察を終え、神の導きと聖書のことばの励ましの中で、実際に宣教に行く準備が進みます。2005年の母教会総会にて正式に私たち家族が母教会からA国に派遣されることが決まりました。これにより私にとっては母教会=派遣教会となりました。

 続いて、宣教委員会(宣教団体)へ申請をおこないました。面接と審査の上、宣教委員会に所属することが認められ、かつ推薦を頂くことができました。この推薦をもとにして、諸教会を訪問するデピュテーションが2005年の6月から始まることになります。

 今回はこの宣教委員会(宣教団体)についての話を中心に書きたいと思います。

 

 1.あの日本人は何者なのか

 

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 聖書を見ると、宣教は地域教会の働きであり、ひとつの地域教会の判断や決定のもとで、宣教師がその教会から他の場所へと遣わされていくことが分かります。

 しかしながら、現在の複雑な世界情勢の中で、ひとつの地域教会が単独で宣教師を海外に送り出すことには、様々な困難もあります。ある国では、個々人ではビザがスムーズに発給されないこともあるでしょう。入国に際しては、団体などのバックボーンや保証、また招へいが必要なこともあります。

 そのため、私が所属していた宣教委員会の場合、同じ立場にあるいくつかの教会が協力し合って宣教の拡大を目的とした委員会を構成し、所属宣教師が海外でスムーズに活動できるように、事務的な面、対外的な面や、長年の蓄積されてきた経験からの助言などのサポートをおこなっています。海外に宣教師を派遣することに関してのノウハウをあまり持っていない地域教会や、経験のない宣教師にとっては、大変助けられる存在です。

 無論、宣教師を派遣し、最終的な責任を持つのは宣教委員会や宣教団体ではなく派遣教会です。宣教師にとっては派遣教会の存在が一番重要であると私は思います。宣教は教会のミッションであり、派遣教会なくしての働きはないからです。国によっては団体に加入するしないに関わらず、個々人でビザを取得して入国し活動ができるところもありますので、宣教団体に所属せずに派遣教会から直接宣教地に遣わされて活動している宣教師もA国にはいます。

 

 では、宣教団体に所属する宣教師にとって助けられる点とは何か。いくつか挙げられますが、そのひとつは、宣教団体から頂ける「推薦」だと思っています。初回のデピュテーションに際して、各教会は、見ず知らずの宣教師を受け入れるかどうか判断に迷うこともあるのではないかと思いますが、派遣教会の「推薦」に合わせて、客観的な視野に立つ宣教委員会や宣教団体からの「推薦」もあれば、その宣教師の信仰的な立場やバックボーンを知るひとつの目安となります。その目安をもって、受け入れを判断することが可能となります。

  そしてそれは海外に行っても同じなのです。海外では日本以上に「彼らはいったい何者なのか」という問題が生じることになります。

  海外に遣わされた宣教師が現地で全く単独で働きをすることは少ないように感じています。多くの場合、現地にある信仰的な立場が同じフェローシップやグループに加わり、そのグループを通してビザの手続きや政府への登録などの支援を受けたり、情報を交換し合ったり、何かの事態には宣教師同士で助け合うことになります。A国の場合、私たちが現在加わっているグループは、そのほとんどがアメリカ人、フィリピン人、韓国人の宣教師が占める中で、日本人宣教師は当初誰もいませんでした。

 既に同国人宣教師が現地にいる場合は、たとえ新しい宣教師がやって来ても、その宣教師の背景や母国での事情もだいたい分かりますから、皆に推薦した上で、すぐに交わりに受け入れられます。しかし、私たちのように、そのグループ内には日本人は誰もいない。私たちの日本での背景やバックボーンを知る人も誰もいないところで、交わりに加わろうとする場合に「あの日本人は一体何者なのか。本当に信頼できるのか。」という目で見られるわけです。

 後にA国宣教の中で、地方へ働きのために行くことになりますが、その地方のある教会と交わりを深めたことがありました。その教会の牧師は後になってこう明かしてくれました。「今だから言えますけど、先生がはじめてこの教会に来られた時、警戒していたんですよ。どこの誰か背景が分からないからと。」「へえ、そうだったんですね。」私は苦笑いしながらも、心の中で、それは教会を守る牧師として当然のことだし、もし自分がその牧師の立場でも同じようにするだろうと思ったのです。なぜなら、自称宣教師にまつわる残念な話をA国ではよく耳にするからです。誰か信頼できる人の推薦かとりなしがなければ、受け入れにくいのです。

  結局のところ、A国で私たちを助けてくださったのは、あるアメリカ人宣教師でした。私が日本で所属していた宣教委員会のルーツを知り、その宣教団体の推薦があるならば信頼がおけるとのことで、私たちを皆に紹介してくださり、グループへの加入が認められたのでした。その宣教師はにこやかに言いました。「今度日本から新しい宣教師が来ることがあったら、あなたがいるから楽だね。」

 

 聖書を見るとパウロはかつて教会を迫害する者でした。キリストを信じてから後、多くの教会は彼を受け入れるのを怖がっていた中で、バルナバが最初に彼のことを受け入れ、そして教会に紹介し、とりなしたのです。後にパウロ自身も、ローマにある教会に「フィベ」を推薦したり、エペソやコロサイの教会に「ティキコ」を紹介したりしました。

 誰もその人の素性や背景を知らない中で、その人を推薦してくれる人物や団体があると、受け入れる方も安心できます。そのような意味で宣教団体の推薦には日本でも海外でも助けられているのです。

 (以上の話は、私の経験に基づいた話です。宣教師によっては、国内外における宣教団体との関係、また他国に送り出される手順など上記とは異なるケースはたくさんあることをご理解ください。)

 

2.宣教とは共同作業

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  A国に来た当初、誰も自分たちのことを知る人がいない中で、宣教団体の推薦、またそのルーツにも助けられたことを書いてきました。それぞれの教会にはルーツがあり歴史があります。その教会はどのような教派の流れにあり、どの国のルーツがあるのか、どの教会の働きからどのような流れで誕生して今に至るのかというルーツです。

 普段はあまり意識することはないのですが、クリスチャンは皆、自身が属する地域教会のルーツの流れの中にあるともいえます。海外に行って、今一度自分の信仰のルーツを意識することになりました。今まで過去におこなわれてきた宣教の働きがあり、そのルーツの中で私の派遣教会があり、そしてA国での働きがある。実に宣教とは、時代を超えた共同作業のようなものだと思っています。決して個人だけでなされるものではありません。

 

 宣教師の派遣には、宣教師を送り出すひとつの地域教会の長い祈りと大きな犠牲があります。そして宣教委員会、団体の助けが必要です。また日本中の交わりがある多くの教会、クリスチャンの祈りと支援があって働きが継続できています。A国宣教にあっては、当初から宣教レポートの発送の働きをしてくださっている方々がおられます。デピュテーションの時に、宿泊場所などを快く提供してくださった方々もおられます。ここには書ききれないほどに様々な形によるサポートや手助けを頂いてきました。

 そして、宣教地にあっては、当初見ず知らずの私たちを受け入れてくださった現地の教会、実際に日本から宣教地に足を運んで励ましてくださったり、子供たちの教育を支援してくださった方々。家族のために必要な物を送ってくださった方々。ひとつひとつの支援がなければ、長年に渡って継続することができない働きでした。心から感謝します。

 

 パウロもこう書いています。「あなたがたも祈りによって協力してくれれば、神は私たちを救い出してくださいます。そのようにして、多くの人たちの助けを通して私たちに与えられた恵みについて、多くの人たちが感謝をささげるようになるのです。」

 パウロの働きも決して一匹狼のような働きではありませんでした。多くの教会の祈りとクリスチャンたちによる様々なサポートによってなされていたのです。

 ひとつの目に見える働きの背後には、多くの目に見えない祈りがあり、そして様々な形を通した手助けがある。 

 繰り返しになりますが、宣教とは個人の働きではなく、主ご自身の働きであり、主にある教会とクリスチャンによる共同作業であり、その目に見える形でのあらわれなのだと思っています。