南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記19【1期】宣教と危険について

 A国に遣わされてしばらくした時のこと、A国と隣国との間で国境紛争から軍事衝突が起きました。今までの人生で味わったことのない「きな臭さ」のようなものを肌で感じました。

 隣家の幼い子供が「戦争が始まるの?」と親に聞く声が耳に入りました。その時の軍事衝突は短期間で終わりましたが、外国にいる以上、いつ何が起こるか分からない状況があります。A国でも多くの宣教師が様々な事件や事故に現実に巻き込まれ、天に召された宣教師も何人もいます。

 海外での宣教の働きと様々な危険というものは、切っても切り離せない関係にあることをいつも心に留めています。

 

1.現実にある危険

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 宣教地での危険にはいろいろな種類があります。洪水などの自然災害、また窃盗や強盗、テロ、誘拐などの犯罪、交通事故、風土病などの病気など、数多くの危険が存在します。それは全部ではありませんが、母国でもあり得ることです。海外だから特別ということではありません。

 しかし、海外では言葉の問題もあり、また緊急時に対応する方法が母国と異なることがあります。何かの時に頼ることができる人も限られます。犯罪に巻き込まれた場合は致命的になる可能性が大きく、そのような意味では母国とはまた違う緊張感を感じることがよくあります。

 A国に関しては、私たちが遣わされる以前からA国で働いていた宣教師は、私たちよりも多くの危険に遭遇していたと思います。ある知人宣教師は入国してすぐに大規模な軍事衝突が起こり、市街で銃弾が飛び交う中、一旦母国に退避せざるを得ませんでした。またある宣教師は暴漢によって銃で撃たれたこともありました。

 その頃に比べると、国自体の治安も段々と良くなってきており、私たちは今まで銃による直接的な被害に出会ったことはありません。しかし、今なおニュースで銃を使った犯罪を見聞きすることは普通にあることです。水面下で銃は出回っています。  

 第1期では毎週村集会に参加していましたが、村から家族が待つ自宅へ帰るのは夜遅くとなりました。集会に同行していた現地の牧師からは、自宅に帰宅したら必ず電話で無事を連絡をしてほしいと頼まれていました。

 なぜ、そこまで心配されるのか最初は不思議に思っていましたが、ある時、現地牧師との会話の中で、かつて強盗事件に巻き込まれた時のことを明かしてくださいました。

 ある夜、突然強盗が自宅に侵入してきて発砲されたこと。強盗が撃った銃の弾が腹部に命中したが、一命をとりとめたこと。あれは神様の守りでしたと、お腹の傷も見せてくださいました。その話を聞いて、いつも村集会の後、外国人である私が夜にバイクで一人帰宅することを心配してくださっていた思いが理解できたのです。

 昔に比べて改善しつつあるとはいえ、当時A国の夜間の治安はまだ安心できないところもありました。A国の教会も、安全面からかつては夜に集会は行われていなかったようです。私はA国に滞在中、余程の用事がない限り、夜間に外出することは基本しませんでした。ここは日本ではなく、いつ何があるか分からない海外であることを、そして日々の生活の中での神の守りをいつも覚えさせられていました。

 その他、病気や事件など、実際に私が宣教地で直面してきた様々な危険については、またいつか個別の機会に書きたいと思います。

 

2.どのように考え対処するか

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 宣教地での危険に関して、どのように考えて対処すべきか、少し実際的な話になりますが、私が現地で考えてきたことの中でのいくつかを書ける範囲で以下に記します。

 

①大切な情報収集

 海外で大事なのは、正しい情報をいかに把握しているかということです。今はネット時代ですので、ネットで常に最新の情報を得ることができますが、もし国が有事となれば、ネットや電話の回線は治安維持のために切断されることもありますので、いろんな情報網を確保しておくことは大切です。

 長く現地に住んでいると、肌や直感的に危険を察知できるようになることもあります。直感的に危ないと思ったことは、なるべく避けるようにしています。しかし、それ以上に私が大事にしているのは、現地の方々からのアドバイスです。特に現地牧師や現地伝道者のアドバイスに信頼を置いています。もし何かを相談して、現地の牧師や伝道者からそれはやめたほうが良いというアドバイスがあれば、私はしないようにしています。

 数年前に、A国の中で不穏な政治状況になったことがありました。私はその時は地方の街に働きのために住んでいましたが、首都にいるベテラン牧師から注意喚起のメールが送られてきました。首都は緊迫感が高まっているので、不測の事態に備えた方が良いとの内容でした。私はそのメールを当初あまり重要視していませんでした。というのも、当時住んでいた地方の街に流れている空気は、首都のような緊迫感が全くなく、どこか他所事のように感じられたからです。

 しかし、しばらくしてその牧師が懸念していたような事態が起き、私は大変驚いたことを覚えています。現地にいる人たちのアドバイスや意見を、決して軽く見るべきでないのです。そのことを思い知らされました。

 繰り返しますが、海外で正確な情報を把握しておくことは大切です。ネット上にもたくさんの情報がありますが、それを正しく見極めることができるように、上からの知恵も必要です。

 

②危険をある程度想定しておく

 危険には2種類あります。それは「想定できる危険」と「想定できない危険」です。想定できないハプニングのような危険があります。それに対しては神様に全てをおゆだねするしかありません。しかし、事前にある程度想定できる危険もあります。それに対しては注意と警戒をすることにによって、危険な目に会うのを防ぐというのは正しいことだと思います。それは病気にかからないように事前にワクチンを打つのと同じことです。この2種類の危険を切り分けて考えることは大切です。

 具体的には、先にも書きましたが、夜間はなるべく外出しないようにしたり、当たり前のようですが、外でも家の中でも貴重品などを見える所に置かないなど気を付けています。以前日本の教会から来て下さった一人の青年がスマホを持って風景を撮影していた時に、後ろから来たバイクに乗った男性にスマホをひったくられそうになったことがありました。幸い未遂に終わりましたが、ひやっとしたことを覚えています。

 一時帰国などでしばらく家を空ける時にも、隣近所には伝えないようにしてほしいと大家さんから言われたことがあります。あの家は留守だと噂が流れると、不在中に泥棒が入るリスクが高まるからです。

 また、宣教地にて教会近隣への伝道はなるべく一人で行かないようにしています。現地のクリスチャンと2人以上で行きます。イエス様も弟子を2人ずつペアにして遣わされました。それも様々な意味で良いことなのだと思います。

 以前ある宣教師から聞いた言葉は印象的でした。「私はいつも最悪のケースを想定しています」と。起こり得る最悪のケースを想定していると、様々なハプニングなどにも落ち着いて対応することができます。それもひとつの知恵でしょう。

 今だから書けますが、宣教の最初の時期は「万が一の場合の覚え書き」を作成して、母国にて預かってもらっていました。海外で私に何か万が一のことが起こった場合に、どのようにしてほしいかを書き留めたものです。また宣教団体の中には、宣教師が誘拐された時にどのように対応するかを想定している団体もあると聞いたことがあります。実際にそのようなケースも世界には起こっているからです。

 大げさのように思えるかもしれませんが、様々なリスクを想定して行動するのは決して悪いことではないと私は思っています。

 

③神を信頼する

 しかし、結局のところ宣教地で一番大事なのは、起こる出来事を全てご支配しておられる神様に信頼するということです。現地でいろいろな危険やハプニングはありますが、神様は必ず全てを益にしてくださると私は信じています。どんな時にも神の保護のもとにあるというのは、何にも変えられない安心感があります。

 

3.宣教地からの退避について

 

 海外では予想しなかった事態の悪化などによって、一時的な退避が必要になることもあります。私たちは今まで「有事」などによって退避を検討したことはないのですが、最近でもある国ではクーデターなど政情の悪化により、命の危険の中で帰国せざるを得なくなった宣教師もいます。

 もちろん退避するという選択もある一方で、退避せずに宣教地に残るという選択をする宣教師もいます。かつてA国でのクーデター騒ぎの時にも、退避した宣教師もいれば、最後まで残った宣教師もいました。それには宣教師一人一人の事情や考え、家族のこと、ポリシーの違いがあり、またその渦中にいる者にしか分からない状況と判断があり、一概にどうこうと言えるものではありません。

 パウロも時には籠に乗って危険から逃れなければならない時もありました(使徒9:25)。また暗殺の危険を避けて行動する必要もありました(使徒20:3)。しかし、時には目の前に危険があり、多くの人たちから警告されながらも、構わずに前進する時もありました(使徒21:12-13)。同様に神様がそれぞれの状況の中で、一人一人をみこころのままに導かれ、それぞれに確信を与えられるのだと思います。

 退避というのは何も政情不安定などによるものだけではありません。時には、精神的な疲労や家族の問題などで、場所を移ることも必要な時もあるかと思います。

 私の知るある宣教師は、A国の地方で開拓の働きをしていましたが、やむを得ない事情の中で、その場所を離れ、しばらく心身の回復をはかった上で、違う場所へと移っていきました。それは家族のためにも良い判断だったと私は思います。

 これは私個人の思いですが、時と場合によって宣教地からの「退避」もしくは「移動」はあり得る判断だと思っています。もちろん、派遣教会と宣教団体の理解もあってのことですが。導かれた場所を喜んで離れる人はいないでしょう。しかし、危険が迫っていたり、個別の事情の中でそのような重い決断をしなければならなかった何組もの宣教師をA国で今まで見てきましたし、自分も彼らと同じ状況であれば、同じ決断をするだろうとも思うのです。

 それぞれが祈りとそして葛藤の中でなされた「退避」という重い決断の背後には、神のお許しと、その時には分からない何かのご計画があると私は信じています。

 

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