南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記16【1期】現地の教会に出席して

 渡航1年目は言葉を学びながら、首都にあるひとつの教会に出席を始めました。その教会はアメリカ人宣教師が1990年代の後半に始めた教会でした。最初はその教会のアメリカ人宣教師のアドバイスに従って、首都にある他のいくつかの教会を訪問して集会に出席し(事前にその教会の牧師の許可を頂いた上で)A国にある教会の様子を見て学ぶこととしました。
 宣教の最初にA国のいくつかの教会を訪問する機会が与えられたことは、それからの働きにとって良かったといえます。教会のスタイルにはそれぞれ違いがありますが、その国の教会ならではの共通点もあるからです。その共通点を最初に知ることができたのは有意義なことでした。かつての宣教視察の時にも色々と感じたことはありましたが、実際にA国での働きを始めて、A国の教会についてより見えてきたこともありました。

1.A国の教会に出席して

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 A国の教会はどの教会も朝が早いスケジュールであることが最初は驚きでした。日曜朝の8時から成人礼拝が始まる教会もあります。礼拝が終わるのは午前10時頃です。日本では今から礼拝が始まる時間に、全ての集会が終わって皆帰宅につくというのは、当初不思議な感じがしました。考えると、一年中真夏のA国では、昼前はかなり暑くなるため、涼しい早朝のうちに礼拝を行うのは理にかなっているとは思いました。

 子供や青年が教会に多いことも宣教視察の時から印象的なことでした。逆に言えば、壮年層はどの教会も少ない状況でした。かつて内戦の時代があったという現実もあり、この国の人口構成は、比較的に壮年層や高齢者は少なく、子供や青年層は多いという特徴があります。数年前ですが、人口の6割が30歳以下というデータを聞いたことがあります。今、日本の国は急速に少子高齢化が進んでいますが、全体的に青年が多いA国の教会の姿は日本から来た者として印象的でした。

 また教会に来て信仰をもったとしても、教会に定着しないことが多いということも実際によく目にしました。特に若い人たちは友人に誘われて教会に来ること自体にはあまり抵抗はないようで、その中で福音を聞き信仰をもつ人たちも多く起こされているようでした。A国の多くの教会では、信じる決心をするとすぐにバプテスマ式を行っていました。しかし残念ながら、そのように信仰をもちバプテスマも受けた人たちが教会に定着せずに離れてしまうケースがとても多いとのことでした。他の教会が魅力的に思えばすぐに移ってしまったり、教会に行くこと自体をやめてしまうことも頻繁にあるようでした。そして、このことは後に私自身が集まりを始める時にも、痛いほど経験することとになりました。

 宣教視察をテーマにした時にも同様のことを書きましたが、A国の多くの教会は、日本のような備品や機械はなく、週報もありません。ピアノや楽器もない教会は、アカペラで歌います。礼拝後の昼食もありません。ある教会はトタンの屋根だけで、壁もありません。スコールが降ると、トタンに打ち付ける激しい雨音で説教が聞きづらくなります。私が今まで慣れ親しんできたシステム化、組織化が進んでいる日本の教会と比べても、本当に「何もない」シンプルなスタイルの教会です。しかし、その中でも、現地のクリスチャンたちが教会に集まってきて、喜んで賛美をし、礼拝している姿に、何か礼拝の原点というものを感じることがありました。誤解しないで頂きたいのは、決してシステム化、組織化が悪いというわけではなく、人数が集まり教会を形成していくためにそれらは必要なことでしょう。しかし、いつの間にか見過されがちな原点のようなものを、改めてA国の教会で見た思いがしたのです。

 

2.ひとつの転換点

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 今までA国の教会を見続けてきた中で、A国の教会にとってひとつのターニングポイントがこの10数年間の中にあったように思っています。(これは客観的なデータに基づいてではなく、宣教地にあって肌で感じていることです。)それは政府からキリスト教会に対して活動の制限令が出された時で、私がA国に遣わされた2年後の出来事でした。

 他の宗教を公的に保護しているA国政府にとって、キリスト教会の国内での増加傾向は目にあまったようでした。それまでは比較的自由に教会が活動することが認められてきた中で、ある日突然政府から活動の制限がかけられたのですから、教会やクリスチャンが受けた衝撃は大きなものがありました。

 また、ある教会が一般向けに配布したトラクトの内容が、あまりに排他的であるとのことで、そのトラクトの配布を止めるように政府から圧力がかかったこともありました。それら一連の出来事を境目に、今まで享受してきた「信教の自由」というものが、決して当たり前ではないことを改めて思いました。

 そのような政府の強い姿勢は、国民の潜在意識にも大きな影響を与えたように感じています。政府が良くは思っていない宗教というレッテルがキリスト教会の上に貼られたこともあるのかもしれません。またその時期の著しい経済成長の中で、人々の心が内面的なものよりも、目に見える豊かさの方に奪われていったこともあるのかもしれません。

 私が現地の教会に出席を始めた頃は、特別の集会などを行った場合など、教会堂に入りきれないほどの多くの新来者が教会に足を向けていましたが、しばらくして起こったそれらの出来事を境にして、教会に新しく足を向ける人々が急に少なくなっていったように感じています。そして、その目に見えない潮流は今もなお続いているようにも思うのです。まるで戦後のリバイバル期から、今まで日本の教会が歩んできた歴史そのものをA国の教会にも見ているような気がしています。

 社会の中の大きな潮流や波というものは目には見えませんが、実際に存在して、人々の心に、また時には教会にも影響を与えることがあります。パウロがテモテに書き送った「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(Ⅱテモテ4:2)」の聖書のことばが心に迫ります。

 「時が良くても悪くても」クリスチャンに、そして教会に与えられている使命はA国でも日本でも変わらないのです。

 

3.日本の教会から遣わされた者として

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 現地の教会に出席を始めましたが、まだ言葉が流暢にできるわけでもありません。最初は賛美も説教も全然理解できず、教会に集う人たちと拙い現地語で話をするも、すぐ会話が続かなくなり、ただ出席しているだけで、何もできないということに思い悩む時がありました。

 そのような中である時、その教会のアメリカ人宣教師から話しかけられました。
この国の多くの教会が抱えている問題は何だと思いますか?

考えさせられる言葉でした。宣教師の話は続きます。

それは、ほとんどの教会は経済的にも自立が難しいということです。外国や宣教師からの支援に頼る状況が長く続いていて、なかなか自立できない。もう自立は難しいと、多くの宣教師はあきらめてしまっている。でもね…」

「あなたは日本の教会からこの国に遣わされてきていますよね。日本の多くの教会もかつて外国からの宣教師の働きによって始まったと聞いています。しかし日本の教会はいつまでも外国の教会に頼らなかったでしょう。日本人のクリスチャンたちで自立して、自分たちで教会を建て上げ、自分たちで教会を運営していますよね。そして、今や海外に宣教師を遣わしている。これは、この国の教会にとって目に見える良いモデルなのです。あなたの存在はこの教会にとって本当に感謝なのですよ。」

 その言葉を聞いて、心が熱くなる思いでした。私はまだ教会の中で何もできず、ただ出席することしかできていなかったのですが、それでも、日本人宣教師の存在そのものが、現地の教会で励ましのひとつになっているのだとしたら、どんなに感謝なことだろうか。そのアメリカ人宣教師の言葉は私にとって慰めでした。「doingではなくbeing」という言葉も聞いたことがありますが、自分が何をするから、何をしたからではなく、自分という存在そのものを神は用いられ、働かれることがあるのです。

 過去にデプテーションで教会を訪問した時に、ある先生から言われた一言がずっと心に残っていました。「神様はいろんな国の人をA国に遣わされている中で、あえて日本の教会から日本人であるあなたを遣わされるのだから、他国の人ではなく、日本人としてできることは必ずある。それを探しなさい。」

 以前にも宣教視察の時に感じた「日本人として遣わされる意義」について少し書く機会がありましたが、10年以上に渡って、いつもこの問いは自分の頭の中にありました。かつては被宣教国であった日本から遣わされた一人の日本人だからこそできることを探して、宣教地で行動しようと努めてきました。

 今までもそしてこれからも、A国への志が与えられ日本から遣わされていた一人として、神様が遣わされた理由を探っていければと思っています。

 

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宣記15【1期】異文化での生活の中で

 海外という異文化の中で新しく生活を始める時に、今まで経験しなかったようなことでストレスを受けることがあります。母国で生活している時には全く気にならなかった匂いや音、風習や文化の違い、また他人とコミュニケーションを取る方法の違いなど、それが些細なことであったとしても悩みの種になり得ます。逆に海外で生活することで新しい視野が広がることもあるように思います。何事もそうですが、マイナスの面もあればプラスの面もあるのです。

 住み始めた時は気が張っていて、あまり気に留めていなかったことが、時間が経つにつれて段々と苦痛になることもあります。その時期は、何事もマイナスの一面でしか見ることができない辛い時期です。それからまたしばらく期間を経て、プラスの面も見ることができるようになるまで、また以前(母国)と今(海外)の違いを、自分の中で受け入れ消化できるまでは「忍耐」の時かもしれません。これは長期間過ごした海外から帰国した時にも「逆カルチャーショック」としてあり得る話ですし、転居や転職など何かの環境の変化でも体験することかもしれません。

①最初ストレスに感じたこと

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 A国で生活を始め、住み慣れるまではいくつかのことでカルチャーショックを感じることがありました。全ては書ききれないのですが、その中のひとつは大音量でした。A国では、一般的に大音量の音楽や音などをあまり気にしていないように思います。結婚式や葬儀式は、家の前の道路などにテントを張って行いますが、スピーカーを使って大音量で音楽や読経を流します。

 家の近所で式典が行われる時は、大型スピーカーから鳴り響く音の振動が家中の窓ガラスを揺らし、家の中にいても、身体の中にまで響くのを感じるほどでした。しかもそれが2日3日と朝から晩まで続きます。周りに家が少ない地方の村などでは、大音量で流すことによって、式典が行われることを近隣に知らせる目的があったようですが、都市でさえも変わらずに大音量が流れるというのは、慣れていない者にとっては、つらいものがあります。教会の近くで何かの式が行われる時には、説教者の説教は式の大音量にかき消され、ほとんど聞こえなくなることもあります。これには何度も参りました。

 その一方で、ある教会は賛美や説教なども、大型スピーカーで大音量で流しています。日本なら確実に近隣から苦情が殺到するレベルです。以前、あるA国在住の外国人が、あまりに近所の教会の集会が大音量なので、苦情を入れたことがあると言われていましたが、こちらの国の人はあまり気にしていないようにも見えます。私はどうも気になって、集会でも音量は控え気味にするのですが…。

 

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 他にも、これは外国に住む以上、当然のことなのですが、いつも外国人として見られ外国人として扱われることにストレスを感じた時期もありました。例えばこの国では、外国人料金というものが普通に存在します。家の前に出すごみを収集車で収集する清掃会社に支払う値段(この国では有料)も、外国人料金として数倍のお金が取られることがありました。またごみ収集車がいつ来るか分からないため、自宅の前に予め出しておくごみ自体も、収集車が来る前にいつの間にか袋を破られて中身を荒らされることがあります。出すごみの中に、金目のものがないかをチェックして、取っていく人たちがいるのです。

 その後、袋を破られて荒らされた我が家のごみが路上に散乱することになります。そのまま路上に放置するわけにもいきませんので、自分たちが出したごみを自分の手で回収しなければなりません。これは大きなストレスでした。

 また私たちが外国人ということもあり、「支援すること」「与えること」に関しては多くのことを考えさせられ、悩むことがありました。A国には、富める者が貧しき者に施すのが当然という考えが根底にあります。施しという善行によって徳を積むという思想が背景にあります。テレビニュースを見ていても、いつも政治家や有力者は地方行脚の時に、多くの人々を集め、物資を貧しい人々に配ってまわります。皆、それを合掌して受け取り、それが当然のこととして放映されています。そのような文化の中で、外国人は富める者として見られ、外国人は困っている者を助けて当然であるという無言の雰囲気を感じることがあるのです。

 宣教の働きにあっては、みことばによる魂への支援を第一に行います(使徒3:6)が、現地にて本当に困っている方々を前にした時に、目に見える形での支援も必要と感じる時があります。その中で現地のクリスチャンに対しても含め、どのような形での支援をどこまですることが良いことなのか、その支援は本当の意味でその人を助けることにつながるのか。

 この10年以上に渡って現地でいろいろな現実を見せられ、また失敗も通して悩み考えさせられてきました。時に適切でない支援は、人と人の関係を建て上げるよりもむしろ逆の結果を招いてしまうことがあり、働きにも良くない影響をもたらすことがあります。

 この国で働いている宣教師とも、このことについて話をすることが何度かありました。宣教師それぞれにポリシーは異なり、それぞれの方法に知恵があることを思いました。ある宣教師の言葉は印象的でした。「助けすぎることに注意しなさい。」必要に応じて助けることは大事だが、必要以上に相手を助けすぎることは、自分も潰れてしまうし、相手にとっても良くないことだと。助けすぎることによって、逆に相手の信仰の自立を妨げることにつながってはならないのです。

 その中で、このことについては私なりの考えとポリシーをもって今まで行動してきました。そのポリシーが現地の実情の中で正しかったと言えるのかどうかは分かりませんが、宣教地にあっては自分のポリシーに従って行動することが大事であること、またそのポリシーは変化していくこともあると経験から学びました。

 私個人的にも以前と今とでは考え方や物事のとらえ方が異なることは多くあります。神を見上げ神に従うということに関しては、今までもこれからも一貫したいと願いますが、物事に対する考え方やそれに伴う行動が変化していくというのは決しておかしいことではありません。それは変化というよりもむしろアップデートしていくようなものです。

 何にしても、様々な現実を目の当たりにして、神からの知恵(ヤコブ1:5)が与えられるように祈らされるのです。

 

②海外ならではのこと

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 A国に住んでいて、外国人として見られ、特別に扱われることからのストレスもありましたが、逆に外国人として周りの目をあまり気にしないで生活できるという一面もあったように思います。

 長女が小学校低学年の時に日本に一時帰国をした際、音楽の授業で鍵盤ハーモニカが必要だったのですが、クラスの全員は一斉購入したため皆同じ色のものでした。その中で娘は自前のものを使ったため、娘だけ違う色の楽器だったことがありました。それを見た娘が「自分だけ違う色って良いよね。」と言った一言がとても印象に残っています。

 日本では、みんな同じでないといけないというような同調圧力を、子供の時から知らず知らずのうちに受けることが多いように思いますが、海外で外国人として育つとそのような雰囲気を経験することが少ないのかもしれません。(しかし、娘もしばらく学校に通うと、みんなと同じ色でないと嫌になったようです。)

 また、海外で母国とは違う価値観を体験できるというのは、子供にとって時につらいことでもあり、その半面で得られることもあるのかもしれません。かつて現地の牧師宅に当時幼かった娘と2人で招かれ、食卓に調理された蛇が出てきたことを思い出します。日本では蛇を食べるということは滅多に体験することはないと思いますが、A国にはA国の食文化があり、それは大切にされるべきものです。現地の方々と同じ物を食べるというのは、実は大きいことです。

 ある時、現地の牧師と一緒に食事をしていて、このように言われました。「先生は私たちと同じごはん(白米)を食べるのですね。」私は別に無理をして白米を食べていた訳ではなく、普段と変わらず食べていたのですが、現地の牧師からすれば外国人が自分たちと同じ物を食べているということが嬉しかったようです。現地の食事をおいしく食べることができるか、好きになれるかということは、海外で生活をしたり働きをするにあたって、おろそかにできないことだと思っています。

 蛇の話に戻りますが、当時幼かった娘は蛇を一口。そして「これおいしいね、何?」と私に聞いてきました。蛇と聞くと、「へえ、蛇っておいしいね。」大人が苦労する異文化の壁を、何も思わずに軽々と越えていく子供の適応力を思いました。

 異文化の中で家族で生活していくには、時にはカルチャーショックもあり、時にはストレスも大きく、つらい経験をすることもあり、決して簡単でない一面もありますが、異文化の中だからこそ体験できる一面もあるのだと知りました。

 最初にも書きましたが、物事には何事にも両面があるのです。最初の時期はどうしても片面しか見ることができないのですが、やがて両面を見ることができようになれば、より深く異文化生活を味わえるのだと思います。

 

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宣記14【1期】家族の合流

 2007年4月、長男の誕生を見届けて単身でA国に渡りました。それから数か月間単身生活をしていましたが、9月に一時帰国し、派遣教会にて正式に派遣式が行われた後、家族一緒の渡航、そしてA国での生活が始まりました。家族にとって初めての海外での生活でした。長女3才、長男0歳(5か月)での渡航でした。(下記に続く)

 

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 1.赤ちゃんのパスポートとビザ

 

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 現在は0歳でもパスポートが必要ですので、渡航前に当時0歳だった長男のパスポートを作りました。赤ちゃんのパスポートの写真はどう撮ればいいのかと思いながら写真屋さんに行ったところ、赤ちゃんをベッドに寝かせて、ベッド上からの撮影。なるほどと思ったことを思い出します。(ちなみに子供のパスポートは5年間有効のため、0歳の時に作ったパスポートの写真と息子が5歳の時の顔は、まるで別人のようでした。)

 海外に長期渡航するためには、渡航国のビザ(査証)が基本的には必要ですが、この当時のA国では、空港で費用を支払えば問題なく入国ビザを取得することができました。今までの歩みの中で、A国の入国時には何回かトラブルを経験しましたが、ビザ取得に関しては今まで大きな問題はなかったことを感謝します。(現在はコロナ禍によって、ビザ取得はどの国も以前より難しくなっています。)

 以前にも書きましたが、入国時もしくは滞在に必要なビザは、宣教師の頭痛の種のひとつです。特に宣教の自由がない国では、祈りつつ知恵を使いながらビザを取得しなければなりません。そのような国では、普段は農業や工業などの技術的な支援をしながら福音を伝える「技術宣教師」が働きをしています。病気の治療をしながら福音を伝える「医療宣教師」や、ある国では英語学校を始めて、生徒に英語を教えながら、地道に宣教の働きをする宣教師もいます。NPOの活動をしながら宣教する宣教師もいます。ビザの問題という背景もありますが、人々の生活に密着しながら、生活の場で証しをしていくそのような宣教師だからこそできる働きもあるのです。将来の様々な可能性のために、若い時に様々な分野を学び、技術を身につけておくことは、いろんな意味で決して無駄にはならないと思っています。

 例え宣教のために必要なビザを取得した上で働きを続けていても、国によっては、ある日突然ビザが取り消され出国が命じられる時があります。知人宣教師の中には、突然3日以内に国を退去するように求められたケースもあったと聞きます。中には、外出中自宅に戻ることが許されずにそのまま国外退去を求められた話も聞いたことがあります。

 ビザを取得していても一安心ではないのです。海外では何が起こるのか分からないのが常であり、ビザの取得や延長の条件が急に変わるのも常です。いつ内乱や紛争が起こるかも分かりません。もしその国の永住権を取得していれば、また話は異なるかもしれませんが、その国にとって外国人である限りは、その国の主権のもとで、いつ退去させられることがあったとしても文句は言えない立場なのです。

 そのような意味では、外国人はその国に在住することが許されている身といえます。日々神の許しと守りの中で、海外での生活と働きができているともいえます。そして、クリスチャンにとって再臨への備えはいつも必要であるのと同様に、宣教師にとっては、いつビザが延長不可になるかもしれない、いつその国での働きに一区切りの日が来るかもしれないという心づもりがどこかで求められるのかもしれません。まさに寄留者。宣教地での一日一日が大切だといえます。

 宣教の働きとは、日々の生活から必要面、健康面や安全面、その国でのビザに至るまで、徹頭徹尾、神への信頼が求められる働きであることを改めて思わされます。

 

 2.家族での渡航

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 赤ちゃん連れで国際線の飛行機に乗る場合、赤ちゃん用の機内ベッドを組み立ててくれます。(事前申し込み要)。これは長時間のフライトの中でとても助かりました。飛行機の中は気圧の変化による耳の痛みもあったり、長時間自由に動けないこともあり、特に幼い子供にとっては苦痛でしょう。この後も、何度も日本とA国を飛行機で往復しましたが、子供達がまだ幼かった時は、おそらくストレスから機内で時々泣き止まない時もありました。特に深夜便では多くの乗客が寝静まっていることもあり、泣き声が機内に響き渡ることもあり、子も大変だったでしょうが、親も気を使うことがよくありました。

 当時日本からの直行便がなかったA国では、第3国での乗り換えが必要でしたが、中継地の空港で機内のストレスから少しの間解放されるのは、子供達にとっても良かったかもしれません。

 神の守りの中でA国に無事に着き、半年間一人暮らししていた家に家族で一緒に向かいました。家族にとって初めての海外での生活が始まりましたが、特に幼い子供がA国での生活をすっと受け入れてくれたことは嬉しいことでした。大人は周りの環境に適応するのに時間がかかるのですが、子供の適応力の大きさを改めて思いました。

 家族が合流したことを、A国の人たちも喜んでくれました。特にA国の人たちは赤ちゃんが大好きで、外国人の子供は特に珍しかったのかもしれません。どこに行っても触られまくりました。他人の赤ちゃんでも、触りまくり、ほっぺをつねるというのも普通なのです。またよく抱っこをさせてくれと頼まれました。お店では、従業員がまだ赤ちゃんだった息子を抱っこして、いつの間にか悪気なく奥に連れて行くのでハラハラしたこともよくありました。国が違えば、かわいさに対する表現も異なるのです。

 

3.到着早々の体調不良

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 急な環境の変化は、体調を崩しやすく病気をしやすいと言いますが、A国に着いて早々、家族全員が原因不明の体調不良になりました。今から思えば何かの感染症だったと思います。今ならすぐに病院に行って治療を受けると思いますが、その当時はまだA国に行ってばかりで言葉もろくにできず、また信頼できる病院がどこにあるか分からなかったので、病院に行くことができませんでした。
 
 自宅での療養が数日間続きました。脱水症状の中で、3才の娘の唇の色が紫色に変わってきた時にはさすがにあわてました。そのような中で、最終的に神様が守ってくださったことは感謝でした。家族にとっては外国で生活する中での最初の試練でしたが、これを家族みなで祈りながら乗り越えることができたことは、その後の海外での生活のためにも良かったと思っています。
 
 今までの個人的な経験ですが、A国にて家族で生活を始める時も、またその後に働きのため地方に移住した時も、最初の時期に何かの試練が与えられてきたように思います。まず最初の時期に試練が与えられ、それを神様の助けによって乗りきった経験や体験は、その後のための大きな助けにもなりました。
 
 パウロはⅡコリント1:10で「神は、それほど大きな死の危険から私たちを救い出してくださいました。これからも救い出してくださいます。私たちはこの神に希望を置いています。」と書いています。パウロは死の危険の中で、神様が確かに守ってくださったという経験や体験がありました。その上で、これから将来も神様は確実に守ってくださるという確信をもてたのだと思います。そのような生きた経験は、私達の確信を強めてくれます。
 

 10年以上に及んだ海外での生活の中で、家族が大きな病気や危険から守られたことは感謝なことでした。もちろん普通に病気はしましたし、怪我をすることもありました。次女も一度幼い時に呼吸器系の症状で入院することもありましたが、いつも神様の備えと守りが確かにありました。神様はいつもどんな時にも必ず支えてくださると信じていましたし、実際神は守ってくださったのです。

宣記13【1期】家族での渡航の準備

前回「言葉の学び」はこちらから▼

 

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 2007年春に単身でA国に渡り、言語を学習しつつ、生活する基盤を整えた上で、家族を迎えるため秋に一旦帰国しました。今回は、家族で海外に渡航するための準備などについて、一般的な話が主になりますが、思い出しながら書きます。

1.荷物の準備

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 多くの航空会社では、エコノミーチケットで、1人7キロまでの手荷物を機内持ち込みすることができ、1人20キロまでの荷物を無料で預けることができます。(航空会社また渡航地などによっては重量も変わり、また個数制限もあります。また格安航空会社では預け荷物にも料金が設定されています。)

 私達が家族5人で渡航する場合、100キロまでの荷物を空港カウンターで預けることが多くの場合できました。今もそうですが、出発前には現地に運びたいものを全部段ボール箱に入れて、体重計を使って制限ぎりぎりまで重さをはかります。

 それをまとめて出発時に空港カウンターに持っていくのですが、5人で計100キロの荷物となると、大きな段ボール箱が数箱になり、まるでちょっとした引っ越しのようになります。カウンターの列に並んでいても他の乗客の荷物に比べてかなり目立ったことを覚えています。

 今まで日本出発時に出発カウンターで預けた荷物は数多くありますが、乗り継ぎ地を経て、問題なくA国まで無事に届いたことは感謝でした。預けた荷物が目的地に届かなかった、また途中で紛失したという話も知人の宣教師からはよく聞きます。1回だけA国到着時に届かなかったこと(ロストバゲージ)がありましたが、夕方には別便でA国に届きましたので、荷物の紛失で悩むことはありませんでした。

 日本の調味料などは、重さ制限に余裕がある限り持っていくようにしました。当時、現地の店で日本の調味料は日本の数倍の値段がするほど高価なものでした。醤油などの液体は重いのですが、海苔やふりかけなどは軽く嵩張らないので、持っていく時に重宝しました。

 運ぶ荷物の中で一番重いのは、実は書籍です。宣教地での働きのために、なるべく多くの書籍を持っていきたかったのですが、その重さゆえに、選んで持って行かざるを得ませんでした。やがて電子書籍の時代に入り、重い本を海外に直接持っていくことから解放されたことは大変助かりました。

 また子供の勉強に関連する本なども同様に重いのですが、特に日本語に関する本は現地では手に入らないので、優先して日本から持っていくようにしました。子供が幼い時の読み聞かせの絵本などは、現地に住んでおられた日本人から何冊も頂いたりし、大変助かりました。本の読み聞かせは、幼い子供の海外における日本語習得のために、とても大事だと聞いていますし、私達もそう思います。

 日本の薬もいくつか持っていきました。日本では医者の処方せんが無ければ入手できないような強い薬も、現地では普通に薬局で売られていますので、時々、病や怪我の症状をネットで調べ、薬の成分を書いた紙を現地の薬局に行って買うこともありました。これは何があっても自己責任です。かぜ薬や胃薬などは日本の飲みなれたものを持って行くようにしました。日本で普通に売られている虫刺されの薬も、意外に現地には無く、日本の薬が重宝しました。

 しかし、結局のところ、現地で長く住むためにはいかに現地で売られているものを使うかという視点が大事かと思います。日本から持って行けるものには限りがあります。全く同じでないにしても、何か代用できるものを現地で探していかなくてはなりません。感謝なことに、A国では子供のオムツから電化製品まで、様々なものが現地の店で売られていました。実際電化製品などは、日本とA国とでは電圧が違うので、現地で売られているものを購入した方が良いのです。また調味料にしても、入手しにくい日本のものよりも入手しやすい現地のものを使う時に、新たな味付けを発見することもあります。

 海外での生活は母国の生活のようにはいきません。「郷に入っては郷に」という言葉もありますが、現地で売られているものを使う中で、実は日本のものよりも使いやすかったという経験は多くあるのです。

 

2.チケットの準備

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 たちがA国に遣わされた2007年ごろからLCC(格安航空会社)の全盛期に入り、その影響もあって、航空券の価格はどんどんと下がっていきました。日本とA国の往復航空券で1人3万円未満の時もありました。日本国内の空港までの移動費の方が高いのではと思ったほどです。アメリカ人宣教師の知人は、家族でA国とアメリカを往復するのに、多額の費用を要すると話していましたので、同じアジア圏内での移動という点では、恵まれていたと思います。昔よりも海外との距離がいろんな意味で近くなった時代でした。

 当時私が所属していた宣教団体では、かつて4年間の宣教地での働きをひとつの区切りとし、その後1年間の帰国と定めていたように記憶しています。昔、飛行機での渡航がまだ難しく、船で海外へ渡航していた時代は、本国と宣教地との往復だけで数か月を要したこともありました。そのような時代では頻繁な国境を越える行き来というのは大変で、4年間に1年間という区切りがあったように思います。しかし、世界の行き来はこの数十年間、比較的にスムーズになりました。私の知人のフィリピン人宣教師も、A国とフィリピンを数か月単位で行き来しての働きをしていました。そのような時代には、そのような時代に合わせた宣教の方法があるのでしょう。

  しかし、2020年に突然やってきた新型コロナウイルスの感染拡大により、今までのそのような状況は大きく変化してしまいました。かつて一世を風靡した格安航空会社は経営が厳しくなり、航空券の価格も上昇傾向です。またかつてのような国境を越えやすい時代に戻ることがあるのかどうかは分かりません。しかし状況はどうであれ、また国内外を問わず、一人一人のクリスチャンへの宣教に対する神の呼びかけは、海外に行きやすい時代も、また行きにくい時代も、制限があったとしても、またなかったとしても、いつの時代も変わらないことを思います。

 

3.予防接種などの準備

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 渡航にいくつかの予防接種を受けました。短期渡航ではあまり必要がなくても、長期渡航の場合はリスクも増えるため、破傷風、肝炎、日本脳炎などいくつかの接種が勧められています。(行く国によって予防接種の内容も異なります。)これも大切な準備のひとつかと思います。

 出発前、一日のうちに左手に2本、右手に1本。口から1つの液体ワクチン。合わせて4つのワクチン接種を同時に受けました。体の中をいくつかのワクチンが駆け巡っている感じがしました。他にも受けていた方が良い予防接種はいくつかあったのですが、日本で全部を受けることは難しく、必要に応じて現地で受けることになります。

 現地で働く知人の宣教師で、腸チフスにかかった方もいます。現地には日本にはない多くの病があります。事前に予防接種を受けていたら、感染しないか、感染しても軽症ですむ病もありますので、感染防止としての接種を受けることは大事なことだと考えます。

 現地でよく流行するデング熱に関しては、まだ効果的なワクチンはありません。対処療法のみです。デング熱はA国では人口の多い街で多発し、マラリヤは田舎に多いと聞きます。多くの知人宣教師また家族が現地で蚊によるデング熱に感染しています。A国ではデング熱は子どもがよくかかり、成人はあまり発症しません。幼い時にかかるため免疫ができるのでしょう。私達が教会で関わっていた子供達も何回か感染し、何度も祈らされました。外国人はデング熱の免疫がないため、成人でもかかりやすいリスクがあります。デング熱自体は、1週間ほど高熱に苦しんだ後に治ると聞きますが、もしデング出血熱という病にかかると命の危険があります。私たちは10年以上現地で住む中で、まだはっきりと分かる形でデング熱に感染したことはないのですが、いつ感染してもおかしくない病ですので、外出時に蚊よけ薬は必ず使用しています。

 ある地方の宣教師を訪問した時のことです。その宣教師の家は、かなりローカルな場所にあるのですが、虫よけ薬を塗っているかと聞かれ、その時はたまたま塗っておらず、塗っていないと答えると真剣な顔で注意されたことがあります。聞くと、その宣教師は子供さんも含め、デング熱にかかったことがあり、大変な思いをされたとのことでした。

 どんなに注意をしていてもかかる病気はあります。しかし、虫よけを塗るなどの行為やワクチンなどによって防げる病気もあります。もし外国で病気にかかれば、言葉の面で意思疎通の難しさもありますし、回復まで多くの時間を要します。防げる病に関しては、ワクチンなどによって防ぐということは良いことだと思います。しかし、最終的に信頼しているのはワクチンではなく神様です。いつも現地で家族が病気から守られるように、健康が支えられるように神様におゆだねし、祈る日々です。

宣記12【1期】言葉の学び

 A国に4月に到着してまもなく、語学学校にて言葉の学びを始めました。どの国の言語学習も同じかと思いますが、新しく学ぶA国語の学習は、私にとって日々苦労の連続でした。

1.驚かれる日本人

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 A国で言葉を学ぶためには、いろんな学校がありますが、私が入った学校のクラスには、全部で15人ほどいました。西洋人はわずか、そしてほとんどは韓国人。それも宣教師でした。クラスの最初にそれぞれの自己紹介の時間がありましたので、私は日本人ですと言い、そして宣教師としてA国に来ていますと付け加えると、それを聞いていた多くの韓国人の宣教師たちが大変驚いた様子でした。

 クラスが終わるなり、数名が私のもとにきて口々に言います。「あなたは、日本からの宣教師なのですか?」「日本は教会が少ないと聞いていましたが…。私、本当は日本に宣教に行きたかったのですが、門が開かれずにA国に来たのです。」「すみません、私と一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?」
 A国で初めて出会う日本人の宣教師は、彼らにとってまるで珍しい存在のようでした。後に韓国人の宣教師たちと親しくなり、多くのことを知りました。

 韓国は国内に教会が多いので、国内で教会を新しく開拓するよりも海外に目を向けていること。そして当時、A国には多くの宣教師が韓国から遣わされてきていたこと。

 特に私が個人的に親しくなった宣教師は、壮年世代になって韓国からA国に遣わされていました。子供が独立した後に、宣教師となって外国に渡ってきているのです。時間をかけながら勉強されている様子が印象的でした。

 「言葉の勉強は難しいですね」といつもその方は言っていました。「私は英語もあまり話せないし、A国語もまだまだだし、それにA国語をずっと勉強していたら、母国語もスムーズに話せなくなるし、いったい私は何人なのかと思いますよ(笑)」

 必死に語学を習得しようと努めている彼らの姿を見て、私も励まされる思いでした。

 

 2.苦労する発音


現地語クラス

 A国語の勉強を始めてみて、すぐに壁にぶつかりました。それはA国語の発音のあまりの多さにでした。音が比較的に少ないと言われている日本語を母語とする日本人にとって、発音の多い言葉を勉強するのは簡単ではありません。

 今までの人生の中で、口から一度も出したことのない音を出さないといけないのです。まず音に慣れなければ、微妙な音の違いが聞き取れません。日本語では「う」としか表現できない言葉でも、唇の形を変えながら出す、いくつもの「う」があります。日本語では「か」としか表現できない言葉でも、息を出す「か」と息を出さない「か」があります。

 文字習得に関しては、ひらがなやカタカナ、漢字というかなりの文字を使いこなす日本人にとっては有利かもしれません。しかし、発音だけはかなり苦戦しました。

 ある宣教師に言われたことを思い出します。「A国語は1に発音、2に発音、3と4がなくて5に発音です。」また他の宣教師からもこのように言われました。「発音は最初が肝心です。最初に変な癖がつくと、後から修正するのは至難の業です。」

 ある時、市場でお手洗いに行きたくなり、近くの人に「トイレはどこですか?」と現地語で聞きました。その人は私の顔をじっと見て言いました。「ごめんなさい。私、外国語が分からないのよ。」いや、自分は現地語で話しかけているのだけど…。内心がっかりした思いでした。発音が悪くて相手に伝わらないというつらい体験はこの後も何度も経験しました。

 自分がどんなに頑張ってもなかなか習得できない発音を、軽々と習得するクラスメートたちを横目で見ながら、どれほど羨ましく思ったか。語学の賜物は本当にあるのだなと、他人を見てよく思いました。ある本にこのようなことが書いてあったのを思い出します。「外国語を学ぶ時は、たくさん話して、たくさん笑われなさい。変なプライドは捨てなさい。」

 変な発音で笑われる経験というものは、できればしたくないものです。「あなたは発音が悪い。何を言っているのか分からない。」と目の前ではっきり言われるのは正直つらいものです。でもそれが怖くて人前で話さなくなると悪循環です。だから笑われることを怖がらない。そして、逆に失敗した自分自身を良い意味で笑えることが大事かと思っています。

 もしも宣教師同士がひとところに集まったら、外国語の失敗の体験談だけで大変盛り上がることがよくあります。結局、どの宣教師も皆同じ経験をしてきているのです。失敗しても落ち込まずに、そしてあきらめずに前に進むことが大切だと思います。

 私はA国語の習得を始めてもう10年以上経ちますが、正直今でも発音には苦労する時があり、笑われることもあります。もちろん帰国した今でもなお上達を心掛けていますし、語学の習得には終わりはありません。

 しかし、いつも忘れずにいたことは、私は言葉を学ぶことが目的でA国で働きをしたのではないということです。宣教師として、福音とみことばを伝えることが私の目的であり使命なのであって、そのための手段のひとつが語学です。このことを混同しないように気をつけました。

 言葉はコミュニケーションのための道具のひとつであって、言語力とコミュニケーション力はまた異なるようにも感じています。言語という良い道具をいつも手にすることができるように、日々磨きますが、道具は使うためにあるものですから、良い道具を手にして満足して終わりではありません。もし言語という手持ちの道具が十分に使えない時があれば、他の違う道具を考えて使うようにしています。

3.現地語を学ぶ意味とは

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 A国で働く世界各国からの宣教師の中には、長年働いている宣教師の中でも、あえてA国語を学ばずに英語のみで働きをする宣教師もいます。その場合、説教をする時は通訳をつけます。A国には英語に関心がある若い人たちも多く、外国人宣教師と英語でコミュニケーションを取るのは、魅力があるようです。現地語を習得するためには、どうしても年単位での時間がかかります。働きの内容にもよりますが、あえて現地語を学ばすに、英語のみですぐに宣教の働きを始めるというのは、一つの方法だとも思います。その中で働きを続けている宣教師を何人も知っています。

 ただ、現地語が分かれば分かるほど、より働きの幅が広がるということを身をもって体験してきました。外国人と英語で話す時は身構えていた方々が、現地語を話せるとなるとホッとした表情で、本音を語ってくることもよくあります。受け入れが全く違うのです。かつて日本で長年働いておられるアメリカ人宣教師と話した時にこのように言われました。

「現地語を学んだら、よりその人の心の深いところに入っていけます。」

 その言葉を今でも思い出します。現地語を学び、現地語を話すということを通して、その国の人と同じ土俵に立てるということです。その国の人々の思考や考え方というものが、その国の言語を通しておぼろげに見えてきます。言葉と文化は切り離せないからです。パウロも様々な場所で働きができたのは、いくつかの言語を話すことができたからではないかと思います。

 言語学習には多くの時間もかかり、また苦労しなければなりません。習得のためには、数多くの失敗もあり、時に赤面するような恥ずかしい思いもしなければなりません。何年経っても言語を通して、失敗することは多いのです。しかし、そうして犠牲を払いながら習得した言語を、神様は働きの中で必ず用いてくださると信じています。

宣記11【1期】単身での出発

前回はこちらから▼   

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  2007年に入り、様々な渡航準備も整い、1年半に渡ったデピュテーションも終わりを迎え、ようやくA国への出発が見込めるようになりました。長男が生まれる時期とも重なりましたので、最初の数か月は私が単身でA国に渡り、海外での生活と働きの基盤を整えた上で家族を迎えることにしました。
(今までの【序】章を終えて、ここからは【1期】の章として話を進めていきます。)

 

1.出発の時

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 地の教会訪問のスケジュールもほぼ終わり、A国への出発を控えた2007年の2月に派遣教会で按手式が行われました。厳かな雰囲気の中での諮問および按手は、これから伝道者として遣わされること、そして与えられた使命の重みを今一度感じさせられる時でした。

 その後、実際に渡航する手続きと準備に入りました。必要な予防接種、また免許センターで国際運転免許証の取得、今まで住んでいた住まいの退去、国外転出届の役所への提出など。今までのような短期の滞在ではなく、海外に実際に住むということが初めての中で、色々と手探りの中での手続きでした。

 その当時A国に入国するためのビザは、到着時に空港内で取得し、入国後に延長の手続きをすれば良いとのことでしたので、ビザに関しては問題はありませんでした。当時A国は外国人にとって入りやすい国のひとつでした。(多くの宣教師は、遣わされる国の入国ビザを取得するために、大変な苦労があると聞いています。現在の世界情勢の中で、最近はどの国もビザ取得および延長に関しては厳格化の流れにあります。その後、A国もビザ取得の方法は変更されています。)

 様々なことの中で、4月に渡航することが決まりました。出産のために実家に戻っていた妻の出産と長男の誕生を見届けて、4月10日に九州の国際空港から日本を発ち、第3国を経由してA国に入国しました。

 

2.単身での渡航

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 外で働きをする場合、まず住むための家を探さなくてはなりません。また、生活していくための様々な道具や器具などが必要ですが、母国から生活用品や荷物などを遠く離れた国に持って行くのは大変なことです。国際輸送会社にお願いし、コンテナなどを用いて一気に家財道具を母国から運ぶ人も多いと聞きます。
 
 同じ国の中だとしても、引っ越しなどによって住む地域や場所、また生活環境が大きく変わることはストレスにつながります。まして海外に移住する場合、特に家族、子供達のことを考えるならば、母国で使い慣れている家財道具などをそのまま外国に持っていくことがよりベターと考える人もいますし、その心情はよく理解できます。ただ、それには費用も時間もかかってしまいます。母国から何を持っていくかの取捨選択は、特に家族で渡航する場合は結構大事なことです。
 
 私達は結婚した当初から、海外での働きが念頭にありましたので、あまり家財道具などを持っていませんでした。A国で生活するために必要なものは、日本から持っていかず、A国で揃えようと思っていました。
 

 その中で、あることを通して、A国で長年働きをされてきた宣教師家族と知り合いました。私が4月にA国に単身渡航して生活と働きを始めることをお伝えすると、ちょうどその先生ご家族がA国での働きを終え、母国に帰国されるタイミングが同じ4月ということが分かり、先生ご家族が住んでおられた住まいに、私がそのまま入居し、使っておられた電化製品なども含め家財道具一式をそのまま譲って頂けることになりました。

 この話、帰国される宣教師には喜ばれ、また私にとっても、A国に入国した時から、生活に必要なものが既に備えられている状況で、これ以上ない感謝なことでした。外国で言葉も全く分からない中で、住む家を探して借り、一から生活基盤を整えていくのは大変な労力かと思います。「主の山には備えがある」という聖書のことばを思い返しました。今思い返しても、神様の不思議な備えには感謝しかありません。

 

3.単身での生活

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 速、海外での単身生活が始まりました。最初は、毎日刺激が多い日々でした。しばらく食事は外食でしたが、近所の食堂でメニューを見ても現地の言葉は分からず、何が書かれているか見当もつきません。

 最初の頃はメニューを指差しして適当なものを注文し、運ばれてきてはじめて自分が注文した料理を知りました。しかも一人では食べきれない量だったりと、なかなか思うように注文できず苦戦しました。次第に、食材を買って自炊することが増えましたが、かつて就職して一人暮らしをした経験が、後に海外で生かされる日がくるとは夢にも思いませんでした。

 しばらくして、A国の言語を学ぶための語学学校に行き始めました。言葉が全く分からない最初のうちは、学校の先生ともコミュニケーションが十分に取れず、苦労しました。「あの日本人はいったい何を言っているのか分からない」と先生同士の冗談が耳に入り、落ち込むこともありました。

 現地の教会の集会に行っても、メッセージも何も分からず、賛美も歌えず、教会の人とも全くコミュニケーションが取れず、今思い返してもこの時は本当につらかったです。宣教師として来ているのに、現地の教会に行くことを苦痛に思っていることに、愕然としました。その状況をなかなか受け入れられずにいました。

 そのうち、毎朝が憂うつになり、夕方近くになると気が晴れてくることの繰り返しでした。このパターンを何とか乗り越えたいと思いましたが、なかなかきっかけが見つかりませんでした。

 日本にいる妻子と、毎晩ネットを使って話をするのが、唯一リラックスする時でした。かつての時代の宣教師は、国際電話の費用が高いため、日本に電話をかけるときには、事前に話すことを箇条書きにまとめ、短い時間で要件のみ手短に話したと聞いたことがあります。その時に比べて、2007年にはまだ今のようなスマートフォンはありませんでしたが、パソコンを通じて会話をすることはできました。費用も安価で技術の進歩にはとても助けられました。

 また、このような時に、ある宣教師の方とお話できたのは幸いでした。

「1年目は何もできなくてしんどいでしょう。言葉もできずに、一体何をするために自分はこの国に来ているんだろうと思うでしょう。」

 まさにその時、自分の思い悩んでいたことを口にされ、目が潤みました。そしてそれは、自分だけでなく、多くの宣教師が通る道だと。決して無理をせずに、できることをしていったら良いとのアドバイスを受け止めました。

 そして、1日に何か1つでも新しいことをしようと「小さなチャレンジ」を心掛けました。私書箱の手続きをしたり、電話の手続きをしたり、ローカルの市場に買い物に行ったり。決して多くのことではなく、無理をせずに、何か1つでもその日のうちにできたら、それで良くやったと自分自身に言い聞かせました。結果的にしんどくて何もできなくても、自分を責めることはしないようにしました。そのようにしながら、少しづつですが、神様の助けの中で前に進んでいくことができたことを思い出します。

 後になって、外国に住むなど新しい文化に入る時に、適応していく段階で多くの人は同じパターンを経験することを本などで知りました。

 ①ハネムーン期…新しい環境で毎日刺激を受ける

 ②ショック期…様々な違いの中で失望が増える

 ③適応開始期…徐々に文化の違いに慣れる

 ④適応期…文化の違いを理解し、違いに寛容になれる

 以上のように表現されていましたが、まさにこの時の私の経験した状況は①と②だったのだと思います。今から振り返れば、そういう時期もあったよねと思えるのですが、渡航したばかりで、様々なことが狭い視野でしか見えなかったその時は、自分にとってつらい時期でした。その中でも、「耐えられない試練にあわせることはなさいません」という聖書のことば。そして狭い視野に陥っていた自分に、状況を客観的に大きな視野で見ることを教えてくれた第3者の存在には、とても助けられたと思っています。

 

宣記10【序】デプテーション②

 宣教地に実際に渡る前に、日本の各教会を訪れて宣教の働きの紹介を行うデプテーション(教会訪問)に関する記事の続きです。

 前回の記事はこちらから 

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1.祈ること・祈られること

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 1年半に渡ったデプテーション。私にとっては初めて訪問する教会、初めてお会いする方々ばかりで、緊張の連続でしたが、どの教会も温かく私達家族を迎えてくださり、大変嬉しくまた励まされたことを覚えています。礼拝や集会の前日などに、早めに教会に行かせて頂く時には、教会の牧師先生ご家族をはじめ教会の方とお話しする機会も多くあり、とても元気づけられました。

 訪問した教会の牧師先生や伝道者の先生方からは、宣教に対するアドバイスをたくさん頂きました。その後のA国での働きにあたって、この時に頂いたアドバイスには何度も助けられました。既に天に召されたある先生に言われた「宣教地に行ったら、信仰に関する本を1か月に1冊は読んだ方が良い」という具体的なアドバイスは今でも心に残っています。時に孤独にも思える海外という環境の中で、身体面だけでなく信仰面での健康を保つことの重要性を教えられた言葉でした。

 また集会後は、教会の方々との顔と顔を合わせてのひとときを通して、そして温かい言葉を通して、祈られる恵みを強く実感することができました。ある方はA国に関する新聞の記事の切り抜きを渡してくださいました。またある方はA国に関する映画を見ていてくださったり、またある教会では集会後にA国料理やA国のデザートやお菓子を作ってみなで一緒に頂くこともありました。ひとつひとつのことを通して、温かい気持ちと励ましをいただきました。

 ある宣教師がこのように話していたのを思い出します。

 「いつも母国で祈られていると思えることは力になります。

 かつてデプテーションなどで訪問した教会の方々が、海外宣教のために祈ってくださっていると知ることは、宣教地で孤独な思いになる時にも、つらい出来事がある時にも、遠く離れた母国の教会を、そして「祈っています」という言葉を思い返すごとに、元気が与えられました。

 これもある宣教師から聞いた話です。その宣教師が宣教地にあって、悩み苦しんでいた、ちょうどその時に、母国の一人のクリスチャンからメールが届いたそうです。そしてこのような内容が書かれていたと。

「私は、なぜか分からないけれども、いまあなたのために祈らなければならないという思いになりました。あなたのために祈っています。」

 その宣教師はその一通のメールにとても励まされたと語っていました。そのメールの送られてきた不思議なタイミング。そして母国で祈られているという事実を通して。母国と外国とどんなに距離があろうとも、祈りに距離は関係ないのです。神様は確かに私達の祈りを聞いてくださるのです。そして私達の祈りを用いてくださり、祈りを通して働いてくださるのです。

  パウロはⅠテサロニケ書の中で、「祈っています(3:10)」そして「祈ってください(5:25)」と祈りによる関係を記しています。日本から海外宣教のために祈られてきた恵みを感謝しつつ、日本の教会の上に続けて祝福があるように祈っています。


2.遣わすこと・遣わされること

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 ある訪問した教会で、礼拝後に一本の長いロープの端を手渡されました。そして教会のメンバーの一人一人がそのロープを手にとり、一つの輪になって共に祈る時がありました。この「ミッションロープ」はとても心に印象的に残っています。遣わすこと、そして遣わされることを象徴的に示しているように思えたのです。

 遣わす者も、遣わされる者も、神様にあってそれぞれが大きな務めであり、使命であること。そのどちらが欠けても宣教活動はできないこと。宣教の働きは、多くのクリスチャンの方々の祈りと支えの中で、バラバラではなく一つのつながりの中で行われること。そのことをこの一本のロープは教えてくれました。

  思い返すと1年半に渡ったデプテーションは、多くの方々の手助けやサポートにより最後まで続けることができました。ある時には、遠距離を移動する私たちのために、泊まる場所や生活に必要なものを快く提供してくださったり、また様々な形を通して支えてくださったり、色々な出来事があった中で、本当に多くの方々に祈られ助けられた1年半でした。今、当時を思い出しながら、未熟さ故に数えきれない失礼やご迷惑をおかけしたことも多かったのではないかと恐縮しつつ、当時お世話になった皆様に感謝の思いを改めてお伝えできればと思います。

 宣教は一人で行うものではなく、多くの方々の祈りと支えがあって、なされるものであるということを実際に宣教地に行く前に、身をもって実感することができるのは、デプテーションの恵みかと思います。

「遠距離の移動は大変ではないですか?」とよく聞かれましたが、私達にとっては各地の教会を訪問できるのはただただ神からの恵みで、各地の訪問を通して多くの祝福を頂きました。私も家族も多くのことを教えられた1年半でした。当時、私達家族を受け入れてくださった教会皆様に心より感謝します。

  

3.宣教のバトン

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  後日、ある本を読んでいた時に、「自分は海外で働かれている人の証しを聞く機会がそんなになかった。聞く機会がなかったので、意識が高まらなかった。」「海外の宣教師が、自分の教会に訪問してきて、海外宣教の話をしたことによって、海外の宣教を思うようになった」と書かれていた証しがありました。

 私も牧師家庭で育つ中で、様々な場所に出ていかれる国内・国外宣教師の先生たちが教会(兼自宅)にデプテーションや宣教報告のために来訪されたことを覚えています。当時の幼い私にとって、宣教師と私たち家族との食事のひととき、また礼拝や集会の中で聞く海外の話などは、とても目新しく、また印象深く感じていました。

 今から考えると、幼い時から知らず知らずのうちに、宣教師の先生たちを通して影響を受けていたのだと思います。全ては神様の導きですが、その時に受けた影響は、今の歩みにも関連しているのでしょう。

 2005年からの私達家族のデプテーションの中で、私が幼い時に教会を訪問してきてくださった何人もの先生方に、今度はこちらから訪問する形でお会いすることができました。また海外宣教師の先生方には個人的にお会いして話をする機会もありました。どの先生もかつての教会訪問の思い出を懐かしそうに語ってくださいました。その話を聞きながら、先生方が私の教会を訪れてくださったからこそ、そして国内・海外を含めた宣教という道筋を見せてくださったからこそ、今の私があり、今の働きがあるということを改めて思わされました。

 今までの宣教の歩みの中で、宣教開始前のデプテーション、またその後の宣教報告などで、全国各地の教会を訪問する機会が与えられてきました。その中で、過去の私がそうであったように、ひょっとしたらどこかの教会で、将来の宣教師に出会っていたのかもしれないと思っています。海外に対して視野が広がり、思いが深まることに少しでもつながったのならば、どんなに嬉しいことかと思っています。海外への志やビジョンというバトンを受けた者として、今度はこのバトンを次の世代の方々に何らかの形でお渡しすることができたら感謝です。