南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記20【1期】現地の教会での説教

 A国語の勉強を続けながら、村の集会で毎週子供対象に聖書のお話を続けていました。そしてA国に渡って2年が経った2009年のこと、首都近郊にある教会から、夕拝で1回の説教をしてもらえませんかという依頼がありました。 

 それまでA国語で成人向けの説教をした経験はなく、初めてのことでした。もちろん何をするにしても初めての時というのは必ずあるのですが、A国語での初めての説教は記憶に強く残る奉仕となりました。

 

1.初めての説教

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 その頃よりも過去に話はさかのぼります。私にとって初めての日本語による礼拝説教奉仕は、関西にある教会でのことでした。当時就職をして働いていた勤務場所の近くにあって、定期的に出席していた教会でした。

 神学校に入学するために、仕事を退職して一旦出身地に戻ることになった時、出身地に戻る前に一度礼拝で説教をしてくださいとその教会の牧師からお話があった時は大変驚きました。まさに青天霹靂でしたが、その先生の励ましの中で、引き受けることとしました。初めての説教の準備にはかなりの時間をかけ、説教の数日前から緊張していたことを覚えています。

 その時の聖書からの説教は、神学校入学前でまだ聖書の知識にも乏しく、今から振り返っても赤面するような説教だったと思います。しかし、あれから25年以上経ちましたが、今でもあの時の初めての説教のことを思い出すのです。自分の働きの原点となる説教奉仕でした。

 なぜ昔の話をしたかと言いますと、2009年のA国語による初めての説教も、まさにその時と同じ体験をしたからです。

 私は原稿にないことを話すのが苦手なタイプなので、いつも日本語、A国語に関わらず説教の原稿は事前に全て書くようにしていますが、A国語による最初の説教ほど準備に時間がかかった説教もなかったと思います。まず日本語で説教原稿を全て記し、その原稿をA国語に一言一句翻訳します。そして、ようやく出来上がったA国語の説教原稿を、当日まで何度も何度も読んで練習します。説教当日を迎えるにつれて祈りの中にも緊張感が高まっていきます。

 そして緊張感に満ちた当日、以前村で子供に対して初めてA国語で聖書のお話をした時と同じように、頭が真っ白になるような思いでした。しかし、A国語で話を始めた時に、神様が聖書のみことばを用いて働いてくださいました。今から思い返しても、発音の間違いはたくさんありましたが、聞いて下さる方に大事なポイントはお伝えすることができたと思います。

 その時から今にいたるまで私が確信していることですが、私のつたないA国語による話や説明ではなく、聖書のみことばにこそ力があるということ。そして、みことばこそがその人を変えることができるということ。

 そのことを思う時に、言語習得には終わりがない努力が必要なのですが、一番大切なのは、聖書のみことばに混ぜ物することなく伝えるということだと日々働きの中で教えられたのでした。

 

2.毎週の説教奉仕

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 初めてA国語で説教をした教会から、数か月後に新たな奉仕の依頼がありました。その教会を始めたアメリカ人宣教師の帰国による不在の間、教会で毎週1回夕拝にて定期的な説教をしてほしいという内容でした。

 この説教奉仕の依頼を受けた時は、まだA言語の勉強を続けている時でしたので、自分にとっては荷が重い奉仕のようにも感じました。毎週村の集会で子供達相手に聖書のお話は続けてきましたが、成人向けに説教をすることはまだ経験が少なかったからです。

 しかし、その教会には宣教師の他にも現地人伝道者がおられたこと、基本的にはその伝道者の方が教会の責任を持ち、私はその現地人伝道者を手助けする役割であることを確認し、祈りのうちにその依頼を引き受けることとしました。

 基本的に、現地の教会から奉仕の依頼があれば喜んで引き受けたいと思っています。その務めのために遣わされているからです。しかし、宣教1期の時には、様々な葛藤の中でお断りしたこともありました。

 まだ1期の時は、言語習得に力を注いでいた時期でもあり、責任ある奉仕を果たせる言語力のレベルに達していなかったからです。お断りする決断というのは、正直心が痛いのですが、自分の言語力以上のものが求められる奉仕を引き受けて、もし自分の能力不足から責任を十分に果たせなかった場合、結果的に教会にもご迷惑をおかけするかもしれないと考えました。その時の自分自身がどこまでできるか・できないかという境界線のようなものを見極めて、判断することは大切であることを宣教地で学びました。

 しかしその上で、時に神様は私たちが持っている能力以上のものが求められる奉仕や働きに導かれることもあるのだと思います。神様が求められるのは能力ではなく信仰であって、たとえ能力に不安があったとしても、信仰をもって前進する時に、必要な力は与えられるのだと信じています。

 今までのA国における宣教の働きを時系列で振り返るならば、

1.渡航して語学の学び (2007~)

2.村での子供集会での奉仕 (2008~)

3.教会での説教のみの奉仕 (2009~)

4.教会を預かっての奉仕 (2012~)

5.新しい集まりの形成 (2013~)

 以上のように、階段を一歩ずつあがるように今まで歩んできました。事前に計画してこのようになったというよりも、神の導きの中で後から振り返ってみれば、結果的にこの順番になっていたと言う方が良いかもしれません。

 宣教師によっては一気に段階を飛び越えて進んでいく方もおられますが、私にとっては、一つ一つ階段をのぼるようにしてじっくりと段階的に進む方が結果的には良かったと思います。

 どのやり方が良い悪いということではなく、宣教師それぞれに与えられているもの、またそれぞれの個性、置かれている環境も異なりますので、それぞれに対する神の導きに従うことが求められているのだと思います。

 

 3.外国語での説教とは

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 外国語で説教を準備するのは大変ですか?と聞かれることがあります。日本語も外国語も説教の準備としておこなう内容に変わりはありません。しかし、準備にかかる時間がどうしても日本語のみの説教の倍近くはかかってしまいます。

 私は先にも書きました通り、いつも説教はすべて原稿に書いて準備します。最初は日本語で原稿を作成し、そして次に辞書を片手にA国語に翻訳していきます。日本語とA国語のニュアンスの違いで、ただ直訳するだけでは意味が通じないことがありますので、そのあたりは苦心しながら、伝わるように準備をする必要があります。最初は慣れない中で、それこそ神経が磨り減るような準備の時でした。

 日本でもそうですが、教会でおこなわれる説教では「キリスト教の専門用語」がよく使われます。一例として「義認」「導き」「みこころ」などがありますが、これらは一般的には使われない言葉で、クリスチャンでない方が耳にしたとしても理解しにくい言葉です。

 A国語にも、このようなキリスト教の教会用語、また聖書用語はありますが、これらの言葉を語学学校では習うことはまずありません。また一般の辞書にも出てきません。しかし、聖書を教える時に必要な聖書用語や教会用語はたくさんあります。それらの用語をどのようにして習得するかは頭を悩ませるところです。

 私の場合ですが、日本語の聖書とA国語の聖書をいつも見比べました。そしてA国語の聖書に出てくる単語の意味を、日本語の聖書の同じ箇所を見て汲み取っていきました。

 また、初期に現地説教者による説教を録音し何回も繰り返し聞きました。その中で、現地の説教者が使う用語や言い回しをメモに残していきました。1人の説教者のみですと、その説教者独特の言い回しがありますので、なるべく多くの説教者の現地語説教を聞きました。そして、この言い回しは分かりやすいと思うものがあれば、自分の説教でも使うようにしました。

 そのうち、単語や言い回しの「引き出し」が増えてくると、最初はぎこちなくても段々とスムーズに話せるようになっていきます。そのためにはやはり経験と積み重ねが大事なのでしょう。これは説教に限らず、他のことでも同じかと思います。

 外国語で説教をする時に、個人的に気をつけた点を以下に3つ記します。

①なるべく分かりやすい言葉を使う

 私のような外国人が説教をする場合、どうしても発音に難があったり、聞きづらいことがあるように思い、あえて難しい言葉や言い回しを用いないようにしました。その場にいる子供でも理解できるような言い回しを心掛けました。私の役割はなるべく簡単な言葉で、誰でも理解しやすい説教をすること、福音を語ることと割り切り、そのために力を注ぎました。

②なるべく視覚教材を用いる

 外国人として、言葉に関しては不足や限界があると考えていました。そのため、なるべく説教の中で視覚教材を用いることを心掛けました。時に、ホワイトボードを使って説教の聖句を書きだしました。またプリントを使ったり、いろんな小物を説教中の視覚教材として使い、足らない言葉を補う工夫をしました。

③現地の実情に応じて話す

 説教の中で使う例話など、現地の文化や生活、実情に即したものを用いるように心がけました。つい日本人としての価値観や様々な背景をもとに語ってしまいがちなのですが、日本とA国では、文化、習慣やタブー、価値観など多くのことが違います。なるべく現地の方々にとって適切でふさわしい例話、イメージしやすい例話などを使うようにしました。

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 ある時英語圏からA国に遣わされた宣教師から「語学を始めて半年たてばA国語で説教ができるようになりますよ」と伝えられたことがあります。しかし、私の場合なかなか現実が伴わずにつらい思いをしました。

 英語とA国語は文法が類似していることもあり、英語が母語の人にとっては、A国語は比較的に勉強しやすい言語かと思いますが、日本語を母語にしている私にとっては、文法がまるっきり異なるA国語を習得するのにかなりの時間を費やしました。結局、A国語で曲がりなりにも説教ができるまで2年かかったことになります。

 それぞれに一番良いペースがあります。「自分に与えられたペースでおこなっていくこと」「決してあせらないこと」が異文化の環境で継続的な働きをするために、特に大切なのだと思います。 

 

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