南の国の風と共に

南の国の教会で働いてきたミッショナリーのメモ

宣記21【1期】現地での伝道とは

 A国の多くの教会でも、近隣に出かけていってトラクトを配ったり、出会う方々に教会の案内をする伝道活動をしています。年中暑いA国では、家の前に座って日陰で涼んでいる方々も多く、直接トラクトを手渡してお話する機会もよくあります。私も教会のメンバーと一緒に伝道活動に行きましたが、実際に近隣の方々に出会って、様々なお話をしたり聞いたりする中で、気づくことも多くありました。今回はA国での伝道の中で気づいたことや感じたことをいくつか書きたいと思います。

1.キリスト教に対する見方

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 まずA国では、多くの人たちは「キリスト教は西洋の宗教だから自分たちには関係がない」と考えているように感じました。キリスト教会、また宣教師のイメージが西洋人であり西洋的なものが強いということがあるのでしょう。これは日本でもよく耳にすることですので、私自身は意外な思いはしませんでした。

 宣教師イコール西洋人という見方は、A国でも日本でもいまだに根強くあるように思います。しかし、いまA国で一番人数が多い宣教師は韓国人とも聞きます。またキリスト教国ともいわれるフィリピンからも多くの宣教師がA国で活動しています。かつてのような宣教師イコール西洋人という時代は変わりつつあります。

 実際にA国では、韓国やフィリピン以外のアジア諸国から派遣されている宣教師にも出会うこともありました。一度お会いした中華系の宣教師は、A国に大勢いる中国の人達のための働きを中国の言葉でおこなっていると聞きました。そういうこともできる時代なのだなと驚いたことを覚えています。

 ある国の宣教に導かれた場合、その国へ直接出かけていき、その国の中で働きをしていくことが今までは多かったように思います。しかし現在、ある国の人たちを対象とする働きは、その国に直接行けなくても、母国でも他国でも行えますし、また様々な形を通して活動ができる時代になったということをA国での宣教の動きを見て知りました。

 今の時代の海外宣教は、以前のようにアメリカから日本へなど「ある特定の国からある特定の国へ宣教師が遣わされる」というような一方向だけでなく、「いろんな国からいろんな国へ宣教師を遣わし遣わされる」という双方向の動きがあるように思っています。これからも神の導きの中で日本から宣教師が世界各国に遣わされ、そして他国から日本へ宣教師が遣わされてくる。そのような時代なのだと思います。

 

2.教会に対する誤解

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 「教会に行ったら、英語を教えてくれますか?パソコンを教えてくれますか?」このような声も伝道の中でよく聞くことがありました。教会がまるで学校や教育団体のようにとらえられ誤解されているようでした。伝道のためにある近隣の村へ行くと、「お母さん!教会がお米を配りに来たよ」と子供が誤解して叫んだこともありました。多くの方々は教会をNGOなどの支援団体と混同されているような感じでした。

 A国では、社会的活動や貧困のための活動をしているキリスト教会が数多くあり、そのような教会の活動によって、一般的に教会が慈善団体のように見られているところがあります。それは「福音という種を蒔くために地を耕す」という意味では良い一面もあります。また、そのような教会の活動によって、キリスト教会がA国では比較的に良好なイメージをもたれていることは感謝なことです。

 しかしながら、教会の活動はそれがメインではありません。本当に大事なのは魂の救いであると私は信じています。ただそのような風潮の中で「英語教室、パソコン教室」などの「付随するもの」がなければ、教会には行きませんと、はっきり言われる方がとても多いのは残念に思いました。

 またキリスト教は貧しい人のための宗教でしょう。私には関係ありません。」との声を聞くこともありました。これも、多くの教会が貧富の差が激しいA国にあって、貧困者のための支援活動をしていることもあるように思います。そのような中にあって、一部の人たちからは、教会は貧しい人が行く場所であって、私が行く場所ではないと思われているようでした。

 「そうではありませんよ。教会は全ての人に扉が開かれています」とお伝えするのですが、このあまりに大きい貧富の差の現実の中で、最初から教会に足を向けようとしない人々がいることは残念に思いました。

 ある宣教師がA国で比較的裕福な人に福音をお伝えしたところ、このように言われたそうです。「聖書に書かれている福音を私は理解します。でも、もし信じてクリスチャンになったら私はA国で仕事をしていけないのです。」彼はその時は福音を受け入れることがなかったそうです。キリスト教に対する偏った見方、また「貧しい人のための宗教」と言われるA国で、日本とはまた違う現実を見た思いがしました。

 

3.どのように伝えていくか

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 ではA国という背景の中でどのように福音を伝えていくことが必要なのでしょうか。日本とはまた違う工夫が求められることがあります。A国の伝道の中でよく耳にする言葉がまだあります。「釈迦はキリストよりも早く生まれた。だから釈迦の方がキリストよりも優れている。」この言葉はよく聞きました。確かに歴史的に見ればその通りでしょう。そして、早く生まれた者(年長者)がより優れているというのは、東洋的な思考の影響もあるのかもしれません。

 以前にも書いたことがありますが、あるA国で働く宣教師はこのように言いました。「私は福音を伝える時に、まず創世記を用います。はじめにまことの神が存在しておられて、天地万物を造られたというメッセージがA国での福音宣教には必要です。」イエス・キリストは永遠の昔から存在しておられ、天地万物を造られた神であるという聖書の教えから、福音を伝えていくこともA国では大切なのです。

 またA国語では「神」に対してあるひとつの単語を使いますが、この単語は、A国では王様や僧侶に使われることもあり、人によっては自分の両親に使うこともあります。日本語では一般的に「神」という単語が人間に使われることはほとんどありませんが、A国語ではよくあることなのです。A国の人々がもともと抱いている「神」に対するイメージはどのようなものなのかを福音を伝える者は考えなければなりません。

 主に西洋の教会や宣教師から日本の教会やクリスチャンに伝えられてきた伝道の方法は、まず「神」がおられるということを前提にしての伝道方法のように思います。ある時フィリピンからA国に派遣されてきた宣教師と話すことがありましたが、フィリピンはキリスト教国(カトリック)で神観が根付いているため、フィリピンで福音を伝える時は唯一の「神」がおられることを前提に話すことができると。だから理解されやすいと。しかしA国ではそうではなく、まず「神」を正しく説明するのに時間がかかると。神はたくさんいるのではなく唯一のお方であり、人間を造られたお方という説明から丁寧にしないといけないと。その通りだなと思いました。

 日本の背景も似ているかとは思いますが、A国ではまず「神」という言葉から正しく教えていかなくてはならないのです。なぜなら先にも書いた通り「神」という言葉はA国では人間にも使われるからです。このことをひとつひとつ説明していくには時間もかかります。福音伝道には時間と忍耐が必要です。でも、正しく福音を伝えるためには必要な時間なのです。

 最後に伝道の中でよく言われた言葉をもう一つ。「全ての宗教は良いのだから、別にキリスト教にこだわらなくてもいいでしょう。」確かに多くの宗教には良い教えがあります。人生をいかに生きるかという教えとしては良いものです。多くの宗教は人を良い行いに導きます。しかし、良い教えと魂の救いは別です。良い教えから、そして良い行いからは罪からの救いはやってこない。救いはただ神からのみ。その変わらない聖書からのメッセージを、A国と言う文化や風習の土壌の中で工夫しながら伝えていかなければならないのです。

 海外宣教とは決して日本の宣教と異なるものではないのです。確かに環境や状況は日本とは異なりますが、現地でおこなっていることは日本と全く同じなのです。地道に一歩一歩福音を、そして場所が変わったとしても変わらない聖書のメッセージを、A国の状況の中でお伝えしていくことを心掛けました。

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